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2016年9月 4日 (日)

感覚と言語(その11)

前回は形容詞の変態能力についてお話をした。

語尾に「さ」や「め」や「み」がつくことによって、さまざまなニュアンスをもった名詞に変容することができる、というお話だった。

しかし同じ形容詞と言っても、その変態能力にはおのずから程度の差がある。

前回例にあげた「高低」や「甘辛」や「軽重」は、たしかに「さ」も「め」も「み」もつくことができる。
しかし、「大小」はどうか?

「大きさ」や「大きめ」は言えるけれど、「大きみ」は不可である。
同じく「硬さ」や「硬め」は言えるけれど、「硬み」は不可である。

「苦楽」についても、「楽しみ」、「苦しみ」、「楽しさ」、「苦しさ」はあるが、「楽しめ」、「苦しめ」はない。
「楽しめ」、「苦しめ」は名詞ではなく、動詞の命令形になってしまう。

その他、「濃淡」、「遠近」、「強弱」、「深浅」、「美醜」など、思いつくままに可不可テストをしてみるのも楽しい。

問題は、この変態能力の差は何によって生じるのか、ということだ。

たとえば、なぜ「高み」という名詞はあるのに「大きみ」という語はないのか?
この「高低」と「大小」の変態能力の差は、何によって生まれるのか?

「高低」も「大小」も基本的に視覚形容詞だけれども、その指示する様態の性質の違いによるのだろうか?
そうであるのなら、指示対象の性質の違いが変態能力の差に結びつくメカニズムをどなたかご教示いただきたいものだ。

あるいは、このような疑問はそもそも無理筋なのだろうか。

言語は慣用の積み重ねともいう。
なぜ「大きみ」がないのか、と問われても「ないから、ない」としか答えようがないのかもしれない。

ところで、前回は形容詞の変態能力のほか、対概念の不平等性についても言及した。

たとえば、「高さ10メートルの低い山」という。
「深さ2メートルの浅い池」という。
「重さ100グラムの軽いケータイ」という。

つまり、対概念が同一スケール上にあるときは、一方の極が全体をあらわすことができる。
「高低」、「深浅」、「軽重」は対概念だけれども、両極は平等ではないのだ。

ここでも、なぜ「高」や「深」や「重」が「低」や「浅」や「軽」を包含することができるのか、そのメカニズムはどうなっているのか、という点が気になる。

「高みに登る」とは言えても「低みに下る」という言い方はない。
また、「深みにはまる」とは言えても「浅み」という語はない。

対称的な概念であるにもかかわらず、なぜ平等に扱われないのだろう?
という疑問がすぐ湧いてくるのも、知りたがり屋の私の悪い癖だろうか?

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