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2016年9月11日 (日)

感覚と言語(その12)

前々回とその前、原初のことばのイメージについて少し語った。

それは、雲のようにあいまいでつかみどころのない、変幻自在、融通無碍のしろもの。
そんなイメージをお話しした。

原初のことばは、だれひとり目撃したことがないから確かめることはできない。
しかし、このイメージはわれながらわりに自然だと思う。

何といっても太古の人間社会は大ざっぱだった。
いまのように精緻な社会システムなど存在しなかった。

だから、意味の境界もあいまいな流動的なことばでも十分間に合った。
あるいはむしろそのほうが好都合だったかもしれない。

ひとつの同じことばでいろいろな事物をあらわすためには、そのほうが都合がいい。
今のように、一つひとつのことばが意味画然としてしまっては融通が利かないのだ。

たとえば、「あまい」という形容詞がある。
この語は、誕生してからまだまり時間が経っていない。
だから、赤ちゃんのように柔らかい。
つまり、意味範囲も伸縮自在なのだ。

とりあえず、何となくしまりのない状態、そこから生じるくつろいだ感覚、生理的快感が表現されればいい。

たとえば、新婚ほやほやの生活の快さをこの語で表現する。
また、父親のゆるゆるの養育ぶりをこの語で表現することもできる。
ブレーキ(太古にはなかったかもしれないが)が十分作動しない状態にもこれが使える。
そして味覚世界では、蜜や砂糖をなめた時の生理的快感をこの語で表現する。

「あまい」という形容詞が味覚世界で成立し「共感覚的比喩」によって心理的領域にまで「転用」されるようになった、という説明は、私にはあと付けの理屈に思われてならない。

ふつうの人は、「あまい」という形容詞は味覚世界で誕生したと思っている。
しかし、ことばの生誕地がそんなに簡単に特定できるはずがない。
味覚世界で誕生したと思っているから、他の分野で「あまい」が用いられたとき「転用」と考えてしまうのだ。

ことばの生誕地を特定しようという窮屈な考えはやめた方がいい。
そうすればわたしたちはもっと自由になれる。

ただ、ことばがどこかで生まれたことは確かだ。
では、どこから?

そう、お母さんの胎内から。
温かくて柔らかいお母さんの胎内には、まだ意味にならない意味の胎児たちがしかるべきシニフィアンを求めて絶え間なくうごめいている。

そしてある時、そのうちの一人が「あまい」という音声標識を得てついにこの世に生れ出るのだ。
おめでとう、形容詞「あまい」君!

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