« 感覚と言語(その6) | トップページ | 感覚と言語(その8) »

2016年8月 7日 (日)

感覚と言語(その7)

考えてみれば、わたしたちは寝ている時間を除いて実にさまざまのおびただしい刺激とつきあっている。
その刺激が感覚を生み、わたしたちはそれに反応する。

そして感情を発し、行動を起こし、考えに沈む。
その繰り返しである。
一刻も休むことがない。

そうしてわたしたちは「生きている」という実感を持つのだろう。

五感はもとより、筋肉感覚、痛覚、温度感覚その他もろもろの感覚が、わたしたちの生を構成している。

そういえば、時間感覚というのもあった。
これは、特定の感覚器官で感じ取る感覚ではない。
わたしたちの生命と身体のすべてをかけて感知する総合的感覚だ。
何回か前にそんなお話をした。

わたしたちの生を構成しているのがもろもろの感覚であるのなら、その感覚経験を表現することばが固有の感覚領域を超えて生のさまざまな局面を表現するのに用いられるのも自然なことかもしれない。

たとえば、前々回登場した「うるさい」という語を例に取ってみよう。

「上の階の子供たちが騒ぐので、うるさくて眠れない」と言う。
発話者にとって、音声記号の過剰入力の状態を表現している。

しかし、「ハエが飛び回って、五月蠅いったらありゃしない」という場合は、必ずしもハエが発する音声記号の過剰入力を意味していない。
頭の周りをハエが飛び回るわずらわしさを表現しているのだ。

さらに、「ラーメンに関しては、私はいささか味にうるさくてね」という言い方もある。
この場合は要求水準が高いことを意味している。

こうして「うるさい」という形容詞は、聴覚世界から他の領域に進出し新たな意味を獲得していく。
このような形容詞の固有領域からの進出や意味の拡張は、普遍的な現象である。

ここで少し気をつけておきたいことがある。
それは形容詞が固有の感覚世界で成立し、しかるのち他の領域に進出し意味を拡張していった、というプロセスは本当に証明できるのか、ということである。

たとえば「あまい」という形容詞がある。
この形容詞の起源が味覚世界にある、ということは本当は誰にも証明できないのではないか。

「あまい」は味覚表現だけでなく、「あまい親父」、「あまい生活」、「ブレーキの利きがあまい」など、幅広い領域で活躍している。
その分、意味範囲もずいぶん広い。

起源に関する証明ができないかぎり、ひょっとして「あまい」という語はもともと普遍的な意味範囲を持った語であって、たまたま味覚表現にも適用できたのだ、という解釈だって可能だ。

つまり、常識とは逆の順序も考えられる。
そんなバカな、とお考えの方は「あまい」という形容詞が味覚世界で成立したことの証明をしていただきたい。

|

« 感覚と言語(その6) | トップページ | 感覚と言語(その8) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 感覚と言語(その6) | トップページ | 感覚と言語(その8) »