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2016年8月28日 (日)

感覚と言語(その10)

原初のことばは今のように意味鮮明ではなく、雲のようにあいまいでつかみどころのない存在だった。
変幻自在、融通無碍のしろものだった。

前回はそんなお話をした。

しかし、形容詞は今でも十分に変態能力を持っている。

たとえば、「あまい」という語を取り上げてみよう。

「お子さま方のために、甘めの味付けにいたしました」
「まだ甘みが足りないなあ」
「政府の取組にはまだまだ甘さが目だつ」

こんなふうに、語幹に「め」や「み」や「さ」がついて名詞に変容することができる。

「高めのボールに手を出した」
「高みに登ることができた」
「君の志の高さには敬服するよ」

も同様である。
この変態能力によって、形容詞を用いた表現はぐんと幅が広がる。

ところで、「さ」についてかねがね私が疑問に思っていることがある。

形容詞は事物の様態を表現する語だから、たいていの形容詞はその反対語を持っている。
そして、その二者をまとめて「高低」といったり「長短」といったり「軽重」といったり「甘辛」と言ったりする。

ところが、「甘辛」の場合は「甘さ」、「辛さ」という派生語を平等に使うけれども、「高低」の場合はそうはいかない。
「あの山の高さは何メートルですか?」ということはできても、「あの山の低さは何メートルですか?」とはいえない。
つまり、「高さ」と「低さ」という派生語は平等ではないのだ。

同じように「そのかばんの重さは何キロですか?」とは言えても「そのかばんの軽さは何キロですか?」とは言えない。
「重さ」と「軽さ」も平等ではない。

「このかばんは、重さ500グラムです」「へーえ、軽いですねえ」
「軽い」ということを強調しようとしても、反対語である「重い」を用いなければならない。

どうして「甘辛」は平等なのに、「高低」や「軽重」は不平等なのだろう?

ひとつ考えられることは、「甘辛」は同じスケールでは測定できないけれど、「高低」や「軽重」は同じスケールで測定することができる、という違いがあるのではないか?

「甘さ」の程度を測定するスケールがあるとする。
一方の端はレベル1の甘さであり、他方の端はレベル10の甘さである。
しかし、そのスケールには「辛い」という感覚は存在しない。
「辛い」を測定するためには、また別のスケールがいる。

しかし、「高低」や「軽重」は同じスケールで表現することができる。
「高い」の程度が小さいのが「低い」であり、「重い」の程度が小さいのが「軽い」ということなのだ。

こうして、「高低」や「軽重」はどちらか一つが全体を代表できることになる。
ただ、「高低」や「軽重」の場合、どうして「高」や「重」が全体を代表するようになったのか、そのメカニズムは依然としてわからない。

ほかにも、「大小」、「深浅」、「遠近」、「苦楽」「美醜」、「硬軟」など対概念をひとまとめにした熟語をいろいろ思い浮かべてみる。

私のスケール論が当てはまるものもあれば、そうでないものもあるように思う。
こんなテーマを研究している人がいれば、ぜひ教えを受けたいものだ。

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コメント

私が思いますに、言葉(概念)の上で正反対と思われることでも、図式的(シンメトリック)に対称的ではなく、程度の差に帰着することが多いのだと思います。重い・軽いは重さがある中での程度、大・小も大きさがある中での程度、深浅、遠近、硬軟、‥‥結構多いように思います(多少も)。反対語でありながらいわば“非対称”なんですね。
ところが、甘辛、苦楽、美醜、好き嫌い、善悪というような感覚概念(抽象概念?)は、物理的な程度を測れませんし、反対語であり対称的構成だと言えそうです。‥‥しかもこれは形容詞に留まらず、名詞、動詞など幅広い語に及んでいるように思います。
となりますと、これは言葉の仕組みというより頭(思考)の仕組みの問題かも知れませんね。‥‥話があらぬ方向へ進んでしまいそうですね。すみません。

投稿: 平戸皆空 | 2016年8月29日 (月) 17時22分

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