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2016年8月21日 (日)

感覚と言語(その9)

前回は「あまい」という形容詞を取り上げて、「共感覚的比喩」の現象について考えてみた。
「あまい」に限らず、「共感覚的比喩」や転用は形容詞ではごく普遍的に見られる。

その理由として、私は視覚、聴覚、味覚をはじめさまざまな感覚が渾然一体となってわたしたちの生を構成しているからという見解を少し前に述べた。

しかし、ブログを書いているうちに考えが変わる、ということもある。
多くの感覚形容詞が特定の感覚世界を超えて幅広く使われているという現象を比喩や転用ということばで片づけていいのか?

もし比喩や転用ということばが当てはまるならば、それぞれの形容詞は特定の感覚世界で出生しそこから意味の拡張を始めたことになるが、ことばとはそもそもそれほどに限定された存在なのだろうか?
そんなにも窮屈なものだろうか?

何か違うような気がする。

ことばは世界を分節し秩序づけ、それによってわたしたちが生存可能、認識可能になるために生まれたものだ。
そして世界を分節し秩序づける仕方は、たぶん無数にある。

ことばはそんな無限の可能性にも対応できるものでなくてはならないはずだ。

太古の言語を思い浮かべてみる。
太古とはいえ、すでに多くの語彙が存在していた。

しかしそのひとつひとつの語彙は、いまのようにそれほど鮮明な姿形をしていたわけではなかった。

ちょうど青空に浮かぶひとつひとつの白雲のように、時々刻々と姿と大きさを変える存在だった。
人間にとって、ちょっとつかみどころのない代物だった。

変幻自在。
融通無碍。

そんな四字熟語がぴったり当てはまるような存在だった。

でも、そんなんじゃあ世界を分節し秩序づけるという言語の使命は果たせないんじゃないの?

そんな素朴な疑問が出るのも無理からぬことではあるが、何といっても太古の時代は万事大ざっぱだった。
世界の分節や秩序づけと言っても、とりあえずデッサン程度でいい。
むしろ、そのほうが無限の可能性に対応しやすい。

そのあと長い時間をかけてしだいに焦点が絞られてゆき、世界がくっきり見えてくるようになる。
そんなふうにプロセスをイメージすればいい。

語彙そのものもまた長い時間をかけて鍛え上げられ、意味範囲が限定されてくる。
姿形がはっきりしてくる。
そうして今のようになった。

「あまい」という語が、日本語世界のさまざまな局面で用いられるようになったのも、多分こんなプロセスを踏んでのことではないだろうか?

「あまい」という形容詞が味覚世界で誕生し、その後比喩や転用という形で心的領域のさまざまな局面で用いられるようになった、というのはあと付けの説明にすぎないと思う。

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