« 感覚と言語(その3) | トップページ | 感覚と言語(その5) »

2016年7月17日 (日)

感覚と言語(その4)

五感ランキングの試みはほんのお遊びだったけれど、これをやることによって考えさせられることもあった。
つまり、感覚と言語の関係についてである。

たとえば、視覚に比べて聴覚はなぜ独自の形容詞が貧弱なのだろう?
貧弱どころか、まったくないのではないか?

「大きな」声、「高い」音、「美しい」音色…。

みな視覚形容詞の流用ですませている。
なぜ、聴覚固有の形容詞が開発されなかったのだろう?

聴覚は視覚と並んで高等感覚の扱いを受けている。
わたしたちの言語活動にもなくてはならない感覚だ。

にもかかわらず、聴覚をあらわす固有の形容詞はない。

いや、ちょっと待った!
「テンポが早い」、「リズムが遅い」というではないか。
と反論される方もあるかもしれない。

しかし「早い」「遅い」は聴覚固有の形容詞だろうか?

「早い」「遅い」は基本的に時間感覚をあらわす形容詞だと考えられる。
それに、チーターの疾走や亀の歩みのような視覚経験をあらわす語でもある。

「早い」「遅い」が聴覚形容詞の視覚への転用とは言えまい。

味覚との比較を考えてみたい。

味覚の場合、多いとは言えないが、「甘い」「辛い」「苦い」「酸っぱい」という固有の形容詞を持っている。
そして、聴覚のように視覚形容詞の流用は行われない。
「このお刺身、大きいね」というのは、刺身についての視覚表現であって味覚表現ではないのだ。

嗅覚の場合は、固有の形容詞としては「くさい」ぐらいしか思いつかないが、それでも「大きな匂い」とか「高い匂い」などという表現はない。表現手段は貧弱だけれど、だからと言って、視覚形容詞を拝借することもない。

最後に触覚の世界ではオノマトペが活躍していることは前にもお話しした。
これを固有の形容詞というのは少し苦しいけれど、それでも視覚形容詞を流用することはやはりない。
「太い手ざわり」とか「低い触感」などとは言わないのだ。

視覚、聴覚とちがって味覚、嗅覚、触覚は劣等感覚としてさげすまれている。
それでも一寸の虫にも五分の魂。
安易に視覚形容詞に頼るという屈辱的な手段はとらない。

しかるに聴覚だけがなぜかくもたやすく視覚形容詞を受け入れているのだろう?
解せない現象である。

聴覚は視覚に何か借りでもあるのだろうか?

|

« 感覚と言語(その3) | トップページ | 感覚と言語(その5) »

コメント

わたさん

興味深い仮説ありがとうございました。
視点がとてもユニークだと思いました。

勉強になりました。

投稿: しおかぜ | 2016年12月25日 (日) 09時09分

楽しく読ませてもらいました。聴覚が視覚の形容詞を借りる理由について、私なりの仮説を思いついたので書き込みします。

「視覚、聴覚」「嗅覚、触覚、味覚」というグループ分けをしてらっしゃるのを読んだとき、聴覚形容詞だけが語彙貧弱というより、この分類に興味を持ちました。

「嗅覚、触覚、味覚」などの表皮(粘膜)情報は、感覚を受容する私自身の表皮に対する刺激を形容するので、舌、皮膚、鼻腔といった場所ごとに形容詞が生まれ、また、これらの感覚は互いの形容詞を貸し借りするのだと思います(「甘い香り」「パンチの効いた味」など)。身体を包む周囲の状況を表現する場合にも「嗅覚、触覚、味覚」形容詞は流用できるように思います(甘い生活、冷たい態度、きな臭い土地、等)。

「視覚、聴覚」は遠方の情報を選択的に収集する器官であることから、目がチカチカする、耳がキンキンと痛む等の主体的な形容詞を発達させるのではなく、遠方の情報発信元の状態を示す形容詞を発達させたように思います。つまり、「嗅覚、触覚、味覚」とは異なり、主体的な形容詞より客観的な形容詞が必要とされたのではないでしょうか。

そこで、録音再生機器が古代にはなかったのに対し、3万年前より絵画があり、視覚には再現性があり伝達が容易だったために、遠方の情報を客観的に伝える視覚形容詞が発達し、聴覚にも共用することになったのではないでしょうか。

もっと一般化していえば、、、、五感それぞれの受信距離、選択性、主観性、再現性がこれらの語彙の発達に影響した、、、というありきたりな結論です、、、(例外も多くて自信はないのですが、、、)。

感覚||情報||距離||選択性||時間性||再現性
触覚||力と温度||0m||なし||なし||同じものを用意
味覚||化学物質||0m||なし||なし||同じものを用意
嗅覚||化学物質||3m||なし||なし||同じものを用意
聴覚||振動平衡||50m||少々||あり||昔は声真似、楽器等
視覚||光学情報||遠||あり||あり||絵画で再現可能

このように表にしてみると、聴覚の再現性の乏しさが目立ちます。同じものを用意しても、その音を発してくれるとは限りません(例;ウグイス)。音を発する個体の意思が重要です。この再現性の乏しさが聴覚形容詞が貧弱である理由ではないでしょうか

また、聴覚は音を発する個体の意思が重要であることから、音の受信に重点が置かれず、音の発信について重点が置かれたのではないかと思います。幸い人間や鳥には豊かな声帯があります。中国語で「音」と「声」の意味が同じであったりするように、古代、音とは声であり、唯一再現性のある音とは言語の発声だったのではないでしょうか。(言語の音素の種類こそが聴覚形容詞の種類なのではないかとも思います。)

今では楽譜が発達し、録音再生機器もあり、再現可能な音が増えたので、音にまつわる形容詞が増加していると思います。(アニメや無声映画の音響製作者は音を形容する言葉を沢山もっているかもしれませんね。)

もし人類が、3万年前から録音再生機器を持っていて、発達した声帯を持たず、胸部に映像モニターを持っていて、カメレオンのようにそれを互いに見せて意思疎通していたと仮定したら、視覚と聴覚の語彙は入れ替わっていたのではないでしょうか、、、。

投稿: わた | 2016年12月24日 (土) 11時01分

確かに聴覚の形容詞はないかもしれません。私が思い浮かんだのは「うるさい」という形容詞ですが、これも元を辿れば視覚的なもののような気がします。
ただ形容詞を言えば視覚からの借りがあるように思えますが、副詞では貸す側に回るように感じます。所謂オノマトペは聴覚から来たものでしょう。
キラキラ光るとかコロコロ回るとかは聴覚の分野から駆り出された言葉だと思います。
そしてこれらは「煌めく」「転がる」などの動詞に変化します。
そう考えると視覚も聴覚も持ちつ持たれつなのではないかと私は思います。

投稿: 方舟 | 2016年7月19日 (火) 09時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 感覚と言語(その3) | トップページ | 感覚と言語(その5) »