« 感覚と言語(その2) | トップページ | 感覚と言語(その4) »

2016年7月10日 (日)

感覚と言語(その3)

前回は五感の非情なランキングを断行した。
そこで第2位に入った聴覚のことだが…。

第2位と言えば高等感覚といってもおかしくない。
それなのになぜ固有の形容詞が発達しなかったのだろう?
どうして視覚形容詞の借用に甘んじなければならなかったのだろう?
味覚、嗅覚、触覚のような劣等感覚でさえ固有の形容詞を持っているというのに。

聴覚と時間の親和的関係のなかに、その答えがあるのだろうか?

私にはむずかしくてよくわからない。
この問題は専門家にお任せすることにして、先を急ごう。

五感をあらわす形容詞は人の感覚経験を表現するだけでなく、人間関係や心理の性質まで表現できる。
むろん、感覚表現の転用であり、その意味では比喩的表現にとどまるのだが。

たとえば、「このチョコレートは苦い」というは味覚表現だけれども、「彼は苦い失敗をかみしめた」ということもできる。
かれの失敗はチョコレートの苦みと同じだというのだ。

自身の失敗についての評価に、「苦い」という味覚表現が成立するのはどんなメカニズムによるのだろう?

甘い生活、深い愛情、重い病気、高い識見、固い決意…。
感覚形容詞の転用は、日本語の世界できわめて普遍的だ。

ふだんわたしたちは意識することなく、このような表現を用いている。
しかし考えてみれば不思議なことである。

お菓子が甘いのはわかるけれども、生活が甘いとはどういうことだろう?
このような転用は、視覚形容詞が聴覚世界の表現に転用されるのと同じメカニズムに基づくのだろうか?

あるいは、「わきが甘い」、「ブレーキの利きが甘い」という表現は、味覚表現からの転用という私の解釈そのものが誤っているのかもしれない。
つまり、転用などではなくもともと「甘い」という形容詞は広大な意味範囲を有していて、それが食べ物に適用された場合に味覚表現としてはたらく、ということなのかもしれない。

味覚表現からの転用というの解釈は順序が逆なのだ。
なるほどそう言われれば、そんな気もする。

英語でも「重い」という形容詞は「荷物が重い」という筋肉感覚の表現にも、「責任が重い」という心理的感覚の表現にも用いられる。
たぶんそのほかの言語でも、似たような現象は見られるに違いない。

人間の感覚には物理的感覚と心理的感覚がある。
どちらが原義でどちらが比喩や転用、などと決めつけるのは早計かもしれない。
形容詞の世界は奥が深い。

|

« 感覚と言語(その2) | トップページ | 感覚と言語(その4) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 感覚と言語(その2) | トップページ | 感覚と言語(その4) »