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2016年7月29日 (金)

感覚と言語(その6)

俗に五感というけれども、わたしたちに備わった感覚はこの5種類だけだろうか?

という問題提起をしたのは少し前のことだった。
蒸し返すようで恐縮だけれども、もう一度このことを考えてみたい。

あの時の結論は、五感以外にもわたしたちにはさまざまな感覚が備わっている、ということだった。

たとえば「重い、軽い」と感じる感覚は、五感以外の筋肉感覚だ。

たとえば、誰かにほっぺたを殴られたとき、押しピンを踏んづけた時に感じる「痛い!」という鋭い感覚は何だろう?
触覚とはとても言えまい。

だいいち痛覚は外部刺激によるものだけではない。
「頭が痛い」「おなかが痛い」などという内部感覚もごく一般的な感覚だ。

ひっくるめて神経感覚と呼ぶべきかもしれない。

それから、頬にさわやかな秋風を感じる感覚は何だろう?
直接的には皮膚が感じる感覚だけれども、これを触覚に分類するのはいささかためらわれる。

「暑い、寒い、暖かい、涼しい」という温感もある。
ただ皮膚が感じる物理的温度の感覚と考えるのでは不十分だ。
何か心理的な要素がかかわっているような気がする。

日本語話者が敏感な「季節感」は、物理的刺激と心理的反応の協働によって成立する感覚ではないだろうか?
やはり触覚とは別の感覚と考えたい。

四季の移り変わりをこの温感形容詞で表現するなら、「暑いー涼しいー寒いー暖かい―暑い」というサイクルを描くことになるだろう。

しかし、物理的存在の温度特性を温感形容詞で表現する場合は様相が異なる。
たとえば、お風呂の水の場合加熱時間に応じて「冷たいー温かいー熱い」というスペクトルを描く。
この場合は、心理的要素は排除され触覚世界の感覚表現が採用される。

興味深いのは、「さむい、すずしい、つめたい」系の低温状態を表現する形容詞は、表現対象がはっきり分かれているのに対して、「あつい、あたたかい」系の高温状態をあらわす形容詞は、表現対象が分かれていないという点である。

つまり、「さむい、すずしい」は大気の温度に関して、「つめたい」は物体の温度に関して表現する場合に用いられる。
大気の温度、つまり気温は季節感という心理的要素と結びついているのに対して、物体の温度を表現する場合には心理的要素が関係しない点に、その違いがあるのだと思う。

ところが、「あつい、あたたかい」は大気の温度に関しても、物体の温度に関しても用いられる。
漢字を用いて表記すれば、「暑い、熱い」、「暖かい、温かい」と書き分けられるけれども、和語としてはまったく同じ語である。

この現象は「さむい、すずしい、つめたい」系の形容詞に関して用いた心理的要素のあるなしという理由では説明がつかない。

温度表現に関する形容詞群は、なぜ対称性が崩れているのだろう?
本当にことばの世界は分からないことだらけである。

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