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2016年6月27日 (月)

時間と人間 

時間の死命は、わたしたち人間の存在が握っている…。

前回の終わりにはそんな結論めいた言い方をした。
しかし、これは時間と人間の関係をめぐる無数の解釈の一つにすぎない。

本当のところ、時間と人間はどちらがえらいのだろう?

前回、聴覚現象は時間の要素を取り入れないと成り立たない、というお話をした。
だから、音楽は時間芸術と呼ばれる。

これに対して、絵画や彫刻はそれを認識するのに時間を必要としない。
瞬間で感じることができる。
だから、視覚に支えられている美術は無時間芸術である。

そういえば、視覚だけでなく嗅覚、味覚、触覚も無時間感覚である。
とすれば感覚の世界では時間はそれほどえらくないのだろうか?

しかし…。

わたしたちが本を読むにも、手紙を書くにもしかるべき時間が必要だ。
聴覚とはかかわりのない行為だけれど、時間と無関係では成り立たない。

行為とは言えないが、読書や執筆に先立つ思考にも時間がかかる。
つまり時間が存在しないと人間は身動き一つできないのだ。

とすればやはり人間よりも時間のほうがえらいのだろうか?
人間は時間に支配されているのだろうか?

たしかにわたしたちは「時間に追い立てられる」という受け身的表現をよく用いる。
世の中があわただしくなるにつれて、そんな感じがますます強くなっている。

しょせん人間は時間に支配される生き物なのか…。

時間の死命は、わたしたち人間の存在が握っている。
冒頭にそう言っておきながら、ずいぶん話が違うじゃないの。

そう憤慨される方がいるかもしれない。
正直言って、私も困惑している。

時間というものに真正面に向き合っていると、どうしてもそんな事態に陥ってしまう。

時間という代物は本当にウナギのようにつかみどころがない。
そんな時間の特性が悪いのだ。
私の責任ではない。

時間や空間うんぬんと言い立てるより、もっと身近な言語現象に目を向けよう。
そんなふうに自戒を込めて自分に言い聞かせたばかりなのに、またしても時間の問題にこだわってしまった。

時間には人を引きつけてやまない魔力がある。

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