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2016年5月 7日 (土)

時間と空間(その11)

時間に対する言語の役割は何か?
時間という構造体にしかるべき目盛りを書き込むことだけだろうか?

少し前、そんな疑問を呈したことがあった。

言語はなまの空間に秩序を付与するという役割を果たした。
しかし、時間はすでにらせん構造という秩序をおのずから備えているので秩序付与の役割は不要だ。

たしかそんな文脈の中で発せられた問いだったと思う。

他にも役割があるかどうかはともかくとして、時間という「長いまっすぐな棒のようなもの」に目盛りを刻みこむことは、言語の大切な役割である。

物差しに刻まれている目盛りのように、時間に刻まれる目盛りにも大きな単位と小さな単位がある。

わたしたちは日々天体の運行を知覚しているので、これに基づいた時間単位がさしあたり基礎になるだろう。
つまり朝、東の空にお日さまが昇ってから次にまた日の出を迎えるまでを「1日」という基礎単位とする。
それと同時に、お月さまの周期的な満ち欠けをよりどころとして「1月」という単位が設定される。

日が昇り日が沈み、また日が昇り日が沈む。
月が満ち月が欠け、また月が満ち月が欠ける。

桜が咲き、桜が散り、山が緑に染まりそして紅葉に変わる。
雪が降り、雪が解け、また桜が咲き、桜が散る…。
桜が咲き、桜が散り、つぎにまた桜が咲くまでの「間」が「1年」である。

空間とちがって時間の構造は循環的だ。
けれども、時の経過に伴って位相が変わる。
だから空間に見立てるとらせん構造をなしていることになる。

ともあれ、こうして「1日」、「1月」、「1年」という暦法、つまり時間に当てはめる目盛りが出来上がる。

考えてみると、天体の運行や四季の変化など目に見える自然の循環を基礎にして時間の目盛りができている。
つまり、悲しいかな時間認識は空間感覚に依存せざるを得ないのだ。

少し前、わたしたちは時間の経過をどのような感覚で認識しているのだろうと考えたことがあった。
その時は視覚を含むわたしたちの五感ではない、と言ったけれどよく考えてみればやはり視覚に由来しているのかもしれない。

たしかに「早い」、「遅い」というのは時間固有の形容詞だけれども、その感覚は物体の空間的な運動や変化など視覚的要因によって成立していると言える。

わたしたちはチーターが草原を走るのを見て「早い」と感じる。
「早い」という時間感覚も、チーターが草原を走るのを見ている空間認識に基づいている。

たしかに時間は空間とは別次元の概念だけれども、わたしたちの感覚特性のために空間に依存せざるを得ない。

だから、わたしたちは空間のことばで時間を語るのだ。

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