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2016年4月30日 (土)

時間と空間(その10)

時間と空間と人間…。

漢語で表現すると奇しくも「間」を共有している。
ただの偶然なのか、それとも何らかの深遠な関係を示唆しているのだろうか?

前回はこんな素朴な疑問を呈してみた。

この疑問に答えるためには、準備作業としてこれらの漢語の出自と成立の事情を明らかにせねばなるまい。

たとえば古代の漢文文献にこれらの語が登場するのかどうか?
たとえば「時間」なんて語は明治の哲学者が欧米語の翻訳として造語したものではないか?
おそらくその可能性が高いように思うのだが…。

しかし、このことを確かめるのは手間ひまがかかる。
そこでずぼらな私としては、既往は問わず「間」を共有しているという形式的事実から出発してみたい。

私はこの「間」にこそ、事象の本質があるのではないかと思っている

たとえば、東の山並みからお日さまが昇り、西の海にお日さまが沈む。
その日の出と日の入りの「間」に「時間」の本質がある。
そもそもわたしたちはこの「間」を「時間」と定義しているのだ。

たとえば、ここにあるテレビとあそこにあるパソコンの「間」に「空間」の本質がある。
テレビやパソコンは物体であり「空間」ではない。
「空間」はその「間」にある。

たとえば、山本さんと西岡さんの「間」に「人間」の本質がある。
ひとりの山本さん、西岡さんはたしかに「人間」と呼ばれている。
しかし、「人間」の本質はふたりの「間」、つまり人間関係のなかにある。

本質は「間」に存在する。
これが、時間、空間、人間に共通するテーゼだ。

このテーゼが時間、空間、人間とその相互関係をより深く理解するために役立てばいいのだが…。
私のことだから、ひょっとすると役立たずのテーゼかもしれない。

ついでながら、私が上で使った「本質」という語についてひとこと申しそえておきたい。

本当は「本質」なんて抽象的であいまいでいい加減な語は使いたくない。
言う人も聞く人も「本質」ということばで分かったつもりになってしまうことが多いのだ。
下手をすると「本質」という語を用いることによって思考停止に陥ってしまう恐れもある。

だから、やたらに「本質」ということばを連発する人は信用できない。

しかし他に適当なことばがないのでこの際はやむを得ず使わせていただく、ということでご了承をお願いしたい。
あるいは「かんどころ」というくだけたことばを使った方がいいかもしれないが…。

ともあれ、時間、空間、人間をめぐってひとつのテーゼが誕生した。
言語がエーテルのようにその「間」を満たしている。

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