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2016年4月23日 (土)

時間と空間(その9)

時間と空間と人間…。

漢語で表現すると奇しくも「間」を共有している。
ただの偶然なのか、それとも何らかの深遠な関係を示唆しているのだろうか?

時間と空間と人間…。
この三つの概念の相互関係を分析してみたい誘惑にかられるけれども、私のような凡人にそんな大それたことの出来ようはずもない。

私にわかるのは、人間はどうしても時間を空間のなかに引きずりこみたがっている、ということぐらいだ。

だから時間を旅人にたとえ、川の流れにたとえ、あるいは直線やらせんにたとえたりする。
そうして擬似的に可視化しないことには、時間を認識することも時間を記述することもむずかしいのだ。

私はミラボー橋の欄干に身を寄せて、セーヌ河の流れを見下ろしている。
そして時の「流れ」を感じている。

ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
流れに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたる験なし…。

月日は流れ、私は残る…。
アポリネールはそう歌ったけれど、よく考えてみるとちょっとおかしい。

実はわたしたち人間も時間の「流れ」に乗っているのだ。
時間とともに流れている。
時間と人間は相対的に同期している。

だから、時間が流れ来て流れ去り、私だけが不変の位置にとどまることなどありえない。

しかしそれでもなお、わたしたちは「時の流れ」を感じる。
時間を無理やり空間に引きずり込んだことによる悲しい錯覚である。

そして錯覚は言語的混乱を生む。
たとえば少し前にお話しした時間表現における「先」の扱いだ。

空間表現における「先」は未経験の領域をあらわす。
しかし、この語が時間表現に転用されると経験済みの時点を表現することも未経験の時点を表現することもある。
意味が不安定になるのだ。

時間と空間と人間…。
この三者の「間」を取り持ち、人間存在にとって都合のいいように調整するのが言語の役割である。

まことに骨の折れる仕事である。
多少の言語的破綻には目をつぶってやらねばなるまい。

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