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2016年4月 1日 (金)

時間と空間(その6)

机の上のガラス皿に、おいしいチョコレートアイスクリームがのっている。

半球形の形があり、褐色の色があり、それなりの大きさがあり、皿を持ち上げればしかるべき重さを感じることができる。
もちろんチョコレート特有の匂いも漂ってくる。
スプーンで口に運べば、しあわせな甘さを味わえるしさわやかな冷たさを感じることもできる。

五感を総動員しておいしいものを食べられるしあわせをかみしめたい。

「早く食べないと溶けちゃうよ」とだれかが言う。
そうだった、いそいで食べないと…。

そういえば、「早い」、「遅い」という形容詞はどの感覚から生まれるのだろう?
視覚でも、聴覚でも、嗅覚でも、味覚でも触覚でもなさそうだ。

「早い」、「遅い」は時間の存在を前提にしないと成り立たない形容詞である。
いくらチーターが早いと言っても、眠っているチーターを見ても「早い」という感覚は生まれない。

これまで時間は五感では感知できない存在だから、時間に関する表現はすべて空間形容詞の転用だ、と言ってきたけれどこれは間違いだった。

「早い」、「遅い」は空間形容詞からの転用ではなく、時間固有の数少ない形容詞なのだ。
「高い山」、「低い丘」とは言えても「早い山」、「遅い丘」では意味をなさない。

「早い」、「遅い」が時間固有の形容詞であることが分かる。
他にも時間固有の形容詞があるかもわからないけれど、今は思いつかない。
ご存知の方がいれば、ご教示を賜りたい。

さて、和語の「はやい」は漢字を当てれば「早い」でもあり「速い」でもある。
「速い」はもっぱら速度に関して用いられ、「早い」は物事の順序に関しても用いられる。
だから「早朝」などという語が成立する。

一方、和語の「おそい」についても「遅い」と「晩い」がある。
早、速との対応でいえば、「早」には「晩」が、「速」には「遅」が対になる。
だから、「早晩」、「遅速」という熟語がある。

前回、「浅い」という空間形容詞はなぜ「春」にしか結びつかないのだろう、という疑問が浮かんだ。
実は同じような現象が「早い」という時間形容詞にも観察されるのだ。

つまり、「早春」と言うことばはおなじみだけれども、「早夏」、「早秋」、「早冬」と言うことばは聞いたことがない。
対になっている「晩」のほうは「晩春」、「晩夏」をはじめすべての季節に結びつくことができるのに…。

ひょっとすると、人の意識のなかで春は他の季節と違う特別扱いがされているのかもしれない。

太陽の力が衰える冬は生命力が枯渇し、人々の命を支える食べ物が乏しくなる。
備蓄の技術が進んでいなかった古代は、食いはぐれるとただちに命の危険に直面する。

それだけに生命の再生を感じさせる春の訪れを待ち望む意識は、他の季節にもまして切実だった。
だから春はことばづかいの上でも特別扱いされるようになった…。
そうは考えられないだろうか?

おそらく春の到来を待ち望むこの意識は四季のある地域には共通していると思われるけれど、他の言語圏でも季節とことばのこのような特別の結びつきが観察されるだろうか?

もしそのような観察例が他の言語圏でも多く認められるなら、なぜ「早春」や「春まだ浅い」とは言えても「早夏」や「冬まだ浅い」とは言えないのか、という疑問に対する私の心理学的説明もあながち的外れではないと思う。

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コメント

時間を表す形容詞には「のろい」や「とろい」がありますね。
なぜ「おそい」の類語はあっても「はやい」の類語はないのでしょうか?
副詞でも「ゆっくり」や「のんびり」「のったり」など、遅い側はいくらでも浮かぶのですが、はやい側だと「てきぱき」など、時間の範囲を超えてしまうものが多いです。
この違いはなんなのでしょうね。

投稿: | 2016年4月13日 (水) 03時32分

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