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2016年3月 6日 (日)

時間と空間(その2)

前回、言語の役割は空間を直接把握することではなく、空間に秩序を与えることだというお話をした。

たてよこななめ、前後左右上下、東西南北…。
わたしたちは空間を秩序づけるそんなことばを持っている。

何のために?

人間の存在を可能にするために。

言語の仕事の第一が空間に秩序を付与することだとすれば、第二の仕事は時間を取り押さえることだ。

何のために?

やはり、人間の存在を可能にするために。

言語にとって、時間は空間よりもはるかに難物だ。

錯覚かもしれないけれど、わたしたちは事物の余白として空間を日常感覚で認識することができる。
しかし時間は、手で触ることも目で見ることもできないしろものだ。

そもそも時間は本当に「ある」のだろうか?
「ある」と主張するなら、どうやってその存在証明をすればいいだろう?

少しでも物事を深く考える人はたちまちこんな深刻な疑問に直面することになる。
ねえ、言語くん、どうすればいい?

そこで言語は考えたのだ。
こんな時は、メタファーを使うにかぎる。

たとえば時間を人にたとえる。

ゆく年くる年、という。
「年」が人間のように時間の「流れ」のなかを行ったり来たりするというのだ。

去年、来年という。
「年」が人間のように去ったり、来たりするというのだ。

月日は百代の過客にして、行きかふ歳も又旅人也…。
芭蕉は時間を旅人になぞらえた。

かつて、ミラボー橋の調べに耳を傾けながら、時はなぜ「流れる」のだろうと考えたことがあった。
「流れる」という動詞は事物の運動の一形態をあらわす。

やはり時の経過を事物の運動になぞらえて、視覚化したのだ。

歴史をさかのぼる、あるいは時代を下る、という。
本来「のぼる」や「くだる」は、空間における人の上下移動をあらわす動詞だ。
それを時間に転用している。

時間を人や事物になぞらえることで視覚化する。
そうやって難物である時間を取り押さえる。

考えてみれば、ことばは空間とも時間とも直接切り結んでいない。
まともに時空間に体当たりするのではなく、間接的なアプローチをとった。
そうしてわたしたち人間の存在可能性を切り拓いてくれた。

なかなかに巧妙な戦略だったと言えるのではないか。

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