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2016年3月13日 (日)

時間と空間(その3)

去年今年 貫く棒の如きもの

という高浜虚子の有名な句がある。
新春放送用に作った句だという。

太くまっすぐな棒が去年から今年へと続く時間の「流れ」のなかを貫いているというのだ。
時間の経過を空間に見立て、そこに棒という事物の存在を認識している。

わたしたちは時間に言及するとき、このように空間や事物に変換して視覚化することでようやく表現できる。

ところで、この句の「棒」とは一体何だろう?
去年から今年へと年があらたまっても変わることのない宇宙の原理みたいなものだろうか?

私のように長く生きていると、確かにそんなのがありそうだと直感的にわかる。

この句は棒と棒以外のものを対比している。
棒が不変の象徴だとすれば、棒以外のものはすべて変化や移ろいを免れない。

棒以外のもの、たとえばわたしたち人間も生まれ、育ち、成熟し、衰え、やがて死を迎える。
だれ一人免れることの出来ない定めである。
そして、「棒」のような不変の存在にすがりつこうとする。

花は咲き、花は散る。
そしてまた、花は咲き、花は散る。

目にも見えず手で触ることもできない時間の存在をわたしたちが確信しているのは、このような変化や移ろいの事実をまのあたりにしているからにほかならない。

一人の人間、ひとつの花から見れば、時間は直線的、不可逆的である。
しかし、種としての人間、種としての花から見れば、時間は循環的である。

合わせて表現するなら、時間はらせん構造をなして進行していく、というべきだろうか。
輪廻の思想はこのような時間構造の特性から生まれたに違いない。

前々回、言語はなまの空間に秩序を付与した、というお話をした。
しかし時間は、言語のはたらきを待つことなく、らせん構造という秩序をおのずから備えている。

だとすれば時間に対する言語の役割とは何か?

時間という構造体にしかるべき目盛りを書き込むことだけだろうか?
時間を空間に変換して視覚化し、わたしたちに認識可能なものにすることだけだろうか?

たしかに時間は難物だ。
言語に対して、これ以上のはたらきを望むのは酷というべきかもしれない。

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