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2016年3月26日 (土)

時間と空間(その5)

わたしたちの五感は形容詞を生む。

たとえば「長い」と「短い」。
「長い道のりを行く」と言ったり「バットを短く持つ」などと言ったりする。

そしてこのような空間形容詞が時間に対しても転用される。
「長い夏休みが終わった」とか「短い睡眠をとっただけだった」などと言う。

「長い」、「短い」はまず視覚によって認識された事物の特性である。
それがどのようにして時間に転用されるのだろう?

時間の経過を直線と見立てて夏休みの開始点と終了点をその直線上にマークする。
そして直線上の2点間の距離を計測して長短を判断するのだろうか?

結局すべて空間現象に変換して視覚的に認識しているのだ。

たとえば「深い」と「浅い」。
「さかのぼるにつれて谷が深くなっていった」と言ったり「浅い川をじゃぶじゃぶ渡った」などと言う。

そしてこれまた時間に転用される。
「春まだ浅い今日このごろ…」、「すっかり秋も深まってまいりました」などとあいさつする。

「深い」、「浅い」は地形のくぼみの程度を表現する空間形容詞である。
それがどのようにして時間に転用されるのだろう?

この転用のメカニズムは「長い」、「短い」ほど簡単ではなさそうだ。
なぜなら「浅い」は春にしか使えず、「深い」は秋にしか使えないという制約があるからだ。

たとえば、「あの人は気が長い」と言ったりする。
「気」が変化するまでの所要時間が長いということだろう。
この表現は本来の空間形容詞が時間的用法に転用され、それがさらに心理的用法に転用されたものだろうか?

「深浅」も転用に転用を重ねて、心理的用法が広く定着した。
だから「深い悲しみ」と言ったり「理解が浅い」と言ったりする。
心理的な程度表現に発展したのだ。

だから春がまだ本格的にならないうちは「春まだ浅い」のだし、いよいよ冬が近づいてくると「秋が深まった」という感興がわく。

とはいえ、「浅い」が夏秋冬と、「深い」が春夏冬となじまないのはなぜなのか?
うまく説明できない。
もう少し「深い」心理学的考察が必要かもしれない。

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