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2016年1月22日 (金)

上と下(その5)

「山をおりる」とも言えるし「山をくだる」とも言える。

前々回は、この場合「おりる」も「くだる」もほぼ同じ意味だけれど、「おりる」のほうが一般的、現代的であるのに対して「くだる」は限定的であり古風な表現だ、というふうに違いを説明した。

しかしこれでは、「社長の座をおりる」は言えても「社長の座をくだる」とは言えない理由が説明できない。

そこで持ち出したのが前回の「経過」と「結果」という区別だ。

「おりる」という動詞には行為の結果への関心があり、「くだる」という動詞には行為の経過に焦点が当たっている。
社長辞任という事実は瞬間的な出来事であり、そこに「経過」という概念が入り込む余地はない、だから「くだる」という動詞は使えない。

という説明だ。
なるほど。

「上野からくだりの列車に乗って青森駅でおりた」

この文における「くだり」という語は、たしかに上野から青森までの旅の経過を連想させる。
そして「おりた」という動詞は、到達点であり結果である青森駅を強調している。

「おりる」と「くだる」の違いがよくわかる。
辞書もはじめからそう説明してくれればいいのに。

「山をおりる」とも言えるし「山をくだる」とも言えるけれども、その下山路のことは「くだり道」と言い、「おり道」とは言わない。
その理由も経過と結果という語の関心の違いによって説明することができる。

「判決がおりる」とも言えるし「判決がくだる」とも言える。

この場合、「おりる」は結果としての判決の内容に関心がある。
そして、「くだる」はその判決に至った経過に関心がある。

「経過と結果」の理論からするとそう説明できるのだけれど、果たして正しいかどうか?

自分自身の言語行動を内省してみてもよくわからない。
私はどちらの言い方も使うような気がするけれど、自分の関心のあり方に従って瞬時に使い分けているのだろうか?
発話メカニズムの不思議さをあらためて感じてしまう。

前にもお話ししたように、空間的にも社会的にも下方向への移動をあらわす日本語の動詞は多い。
下方向への移動はわたしたちにとってできるだけ避けたい事態だから、それだけ敏感になる。
それが反映して、下方向への移動をあらわす動詞が豊富になるのだろう。

「くだる」と「おりる」の違いについては、上のように何とか合理的な説明にたどり着いた。

では「さがる」はどうか?

基本的には「くだる」と同様、経過に関心があるのだと思う。
「成績がさがる」にしても「気温がさがる」にしても「株価がさがる」にしても、聞き手は変化のグラフを連想する。
「くだる」との違いは人が主語になり得るかどうかという点にあると言いたいけれども、例外はある。

最後に「おちる」。
この動詞は、行為の経過にも結果にも関心がない。
「おちる」という事実そのものに関心がある。
きわめて記述的な語である。

だから「成績がおちた」という報告を受けると、聞き手はのんびり変化グラフなど連想していられない。
ただ、その事実に衝撃を受けるのだ。

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コメント

今日は。最後の方の「おちる」がらみでコメントいたしま
す。
百人一首で「おちる」言葉を使った歌は一首あります。
陽成院の「筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川
恋ぞ積もりて淵となりぬる」‥‥男体、女体の山に発する
みなのがわ(男女川)、そこに水が滴り落ちて色恋事も
満ちている‥‥というイメージでしょうか。なんとロマ
ンチック(エロチック)な歌を詠んだものです。今でも
「恋に落ちる」という言い方をしていますね。
一方、源氏物語の「若紫の巻」の中で、「おちる」がと
ても印象的に使われています。それは源氏が京都の北山
の寺で垣間見た少女(後の紫の上)が、あの憧れの藤壺
の宮に瓜二つであったので、思わず、“涙ぞ落つる”始末
となったという風に描かれている箇所です。‥‥結局、こ
れは「源氏物語」全体のストーリーを決定づける分岐点
となったシーンだったことが後から分かります。
つまり私が言いたいのは、昔から「おちる」はとても陰
影の濃い言葉としても使われていたんだなということで
す。もちろん「木の実が落ちる」と、普通にも使ってい
たんでしょうが。

投稿: 平戸皆空 | 2016年1月23日 (土) 11時36分

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