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2015年11月22日 (日)

時のあとさき(その2)

たとえば「年」という時間単位に対して、基準時もしくは発話時から過去の意を表現したいときは、「前」、「昨」、「去」、「先」などの語を付加することができる。

それぞれ少しずつ意味や用法がずれるけれども、「去年」、「昨年」、「前年」、「先年」などという。

「日」という時間単位についても、上記のうち「去」以外の語は用いられる。
それに、これらの漢語以外にも「きのう」というりっぱな和語もある。

これに対して、「週」や「月」には「先」しかつくことができない。
しかもこの場合の「先」は、「日」や「年」における「昨」の意味なのだ。
また、「先週」や「先月」には「きのう」のような固有の和語もない。

何だか貧弱だ。
なぜだろう?

「週」や「月」は、時間単位としてあるいは生活サイクルとして「日」や「年」ほど重要性を持たないからだろうか?
人々は「週」や「月」に関して、「日」や「年」ほどこまやかにことばを使い分ける必要を感じていないのだろうか?

たしかにことばが誕生した古い時代のことを考えるとそうかもしれない。
科学と縁のなかった古代人にとっても、お日さまの運行や四季のめぐりという自然現象を通じて「日」や「年」というサイクルを体感することができた。
それに、古代の主要産業だった農業は「日」や「年」というサイクルとは切っても切れない関係にある。

それに比べて、「週」や「月」はどうか?

たしかに「月」も月の満ち欠けという自然現象に由来しているけれども、「日」や「年」に比べると副次的だ。
「週」に至っては、自然現象とは縁のない特定の一宗教から生まれた概念にすぎない。

一分一秒を争う現代のビジネス社会では、「週」や「月」という時間単位も「日」や「年」に変わらない重要性を持っている。
それどころか現代の株式取引では、秒単位で損益に大きな差が生まれる。

しかし、ことばはそのめまぐるしい変化についていけない。
だから、「週」や「月」にかかわる言語表現は貧弱なのだ。

これで「週」や「月」の問題は片付いた。
次は「日」と「年」の扱いの違いをやっつけておこう。

「日」については、日常会話では「おととい、きのう、きょう、あした、あさって」と和語が幅を利かせている。
「一昨日、昨日、本日、明日、明後日」という漢語もあることはあるが、あらたまった場面でしか出番がない。

一方、「年」については和語は「ことし」と「おととし」しかない。
だから、指を折って年を数えるのに「おととし、去年、ことし、来年、再来年」という。
「おととし」、「ことし」以外は漢語すなわち輸入物ですませている。

つまり、日本語話者にとっては「年」よりも「日」のほうがはるかに生活に密着しているということだ。
農業にとっては「年」という時間単位も「日」に劣らず重要なはずだが、日本語話者の思考のスケールはそこまでカバーできなかったのだろうか?

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