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2015年6月12日 (金)

ミラボー橋(その8)

シャンソン「ミラボー橋」のキーワードは「流れる」だ。

堀口大学の訳詩では、セーヌ河が流れ、われらの恋が流れ、月日が流れ、疲れた無窮の時が流れるのだった。

同じ詩の中で、時の流れは別のことばでも表現されている。

日が去り 月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない…

時間は「流れる」だけでなく、「去る」ものであり、「ゆく」ものであり、「過ぎる」ものでもある。
わたしから遠ざかってゆく意味の語ばかりである。

こうして動詞を並べてみると、わたしたちが錯覚を起こすのも無理はないように思える。
本当は時間と同期してわたしたちも流れてゆくのだけれど、時間だけが流れてゆきわたしは後に取り残される、という錯覚である。

わたしたちは時間に対して、自らを錯覚に誘う動詞しかあてがうことができなかった。
わたしたちの感覚にはたらきかける時間の不思議な作用というべきだろうか?

ともあれ時間は「ゆく」ものでもある。
ミラボー橋の英訳でも「go」という動詞が用いられている。

月日は百代の過客にして 行かふ歳も又旅人也

そんなふうに芭蕉は言っている。
時間は旅人のようにどこかへ「ゆく」ものだという認識がそこにはある。

「流れる」から「ゆく」という動詞に焦点を移してみたい。

もう惜春の季節は過ぎてしまったけれど、芭蕉は句を残している。

ゆく春を 近江の人と 惜しみけり

ゆく春や 鳥啼き 魚の目は泪

芭蕉がはじめてこれらの句を懐紙に書きつけた時は、どんな表記だったのだろう?

「行く春」か「行春」か、はたまた「ゆく春」か?
いまわたしたちが目にする書物の表記を見る限り確定できない。

私自身は、長い間「逝く春」と思い込んでいた。

本当に春が逝くわけではないが、比喩としては悪くないと思っている。
いまこの春は今年かぎりの春である。
来年再び来るはずの春は、この春とは別の春なのだ。

いま過ぎ去ろうとしているこの春は、二度と帰って来ない。
アポリネールの恋と同じである。

そう思えば「逝く春」でも少しもおかしくない。

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