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2015年6月 5日 (金)

ミラボー橋(その7)

シャンソン「ミラボー橋」を聞くにつけ、時間と人間をめぐる関係に思いが及ぶ。

月日は流れ、私は残る…。

というフレーズからは、万物が流れ去り私だけが取り残されるという感懐が生まれる。
そして、思いは生々流転、諸行無常へとつながってゆく。

という次第は、堀口大学の訳詩でこの曲を聴く日本語話者に限ったものだろうか?
それとも西洋の人々も似たような感懐を抱くのだろうか?

そうかもしれない。
あるいは、西洋の人々の時間観念はわたしたちとはまったく違うから、無常観とは無縁かもしれない。

前回はそんなふうにどっちつかずの議論に終始した。

フランス語は分からないから勘弁してもらうとして、英語ではこのリフレインは次のように訳されている。

The days go away I remain

日本語訳詩と同じく、対句の形式をとっている。
だが、それによって聞き手に同じような心理的効果をもたらすと言うのは早計だ。

この「go」なり「remain」という動詞にふれたとき、英語話者にはどんなイメージが喚起されるのだろう?
まず、その点を明らかにしなければなるまい。

そのためには、「go」なり「remain」というありふれた動詞の原義や意味の深層を探る必要がある。
これは骨の折れる仕事だし、専門的な知見が欠かせない。

といううわけで、専門家ではない私としてはこの問題からは残念ながらこの辺で撤退せざるを得ない。

ともあれ、西洋でも東洋でも時間と人間の関係をめぐる錯覚だけは共有している。

「流れ」という語を用いるなら、わたしたちもまた時の流れに乗って一緒にどこかへ流れて行っているのだけれど、しばしば時の岸辺にたたずんで時の流れを見送っているという感覚にとらわれる。

そんな錯覚だ。

その錯覚は、時間と人間の関係を相対的と見る。

わたしたち人間を不変とみれば、外界が移り変わり流れ去ってゆく。
逆に、外界を不変とみれば人間のほうが定めなく流れ去ってゆく。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして

在原業平はそう歌っていた。

かと思えば、劉廷芝はもうひとつの視点に立っている。

年年歳歳 花相似
歳歳年年 人不同

思えば私もずいぶん歳を重ねてきた。
外界が変わったのか、それとも私のほうが変わったのか、いま自問している。

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