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2015年5月 8日 (金)

ミラボー橋(その3)

シャンソン「ミラボー橋」のキーワードは「流れる」という動詞である。

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる…

詩はそんなフレーズで始まる。そして、

こうしていると
二人の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる

と歌われる。さらに、

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

という詩句が何度もくりかえされる。

万物が流れ去り、私だけが取り残される…。
私の熱い恋が、そして何もかもが。

生々流転、諸行無常。
曲を聴いていると、そんな喪失感がどんどん深まっていく。

しかし、こんな感興は堀口大学訳のせいかもしれない。
原詩でも、英訳でも日本語の「流れる」に相当する動詞を用いているのは、最初の二行だけである。

あとの個所は、日本語でいえば「過ぎ去る」に近い意味の動詞が用いられている。
その点、

夜よこい 鐘もなれ
日々はすぎ 僕は残る(窪田般弥訳)

あるいは、

夜は来い鐘は鳴れ
日は過ぎ去ってわたしは残る(飯島耕一訳)

のほうが、忠実な訳だと思う。

フランス語でも英語でも、たしかに「川は流れる」。
これは日本語にも共通した生理的実感である

しかし、「月日」や「時」は流れない。
それは「過ぎ去る」のみである。

フランス語や英語では、「月日」や「時」が「流れる」という比喩的表現は成り立たない。
おそらく、そのような表現を許す生理的実感が存在しないのだろう。

しかし、日本語では「月日」や「歳月」や「時間」はたしかに「流れる」のだ。
堀口大学はそんな日本的感性を信じて訳したのだと思う。

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