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2015年5月22日 (金)

ミラボー橋(その5)

時間に対して「流れる」という動詞を用いるのは日本語話者特有の感受性である。

という結論について、前回は若干の留保をつけて終わった。

とはいえ世界の諸語をしらみつぶしに調べるのは私の手に余るので、特有かどうかは別にしてこの日本語話者の感受性について考えてみたい。

「時間」というものは、目には見えず手で触れることもできない。
もちろん、音も立てないし味もにおいもない。
だからわたしたちの感覚世界に関する限り、時間など「ない」も同然だ。

とはいえ、日々朝が来て夜になる。
春が過ぎ、夏が来る。
秋が来て、やがて冬を迎える。

その天体の運行や四季の移り変わりを、ふだんわたしたちは川の流れのように見送っているという気分でいる。

でもそれは錯覚なのだ。
気がつくと、髪は白くなり、肌はしわだらけになり、足が弱ってくる。

世界と「わたし」の無常を操っている何かが「ある」と認めざるを得なくなる。
そして、その「何か」に対して日本語話者は「とき」という名を与えた。

この世に永遠に変わらぬものなど何ひとつないことを、「とき」は教えてくれる。
その「とき」の力は人間にはどうすることもできない。

日本語話者は、そこに押しとどめることのできない川の流れと同じものを感じたのかもしれない。
日本列島を覆う伝統的な無常観と「流れる」という動詞は親和性が高いのだ。

ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし…

原詩や英訳のミラボー橋では、時間については「過ぎ去る」に相当する動詞を用いている。
たしかに時間という抽象的観念に関しては、同じく抽象性の高い「過ぎ去る」という動詞のほうがふさわしい。

ところが、和語はこのような抽象的観念を操作するのが苦手だ。
だから、即物的な動きをあらわす「流れる」という動詞のほうがしっくりくるのかもしれない。

小松左京さんに、「果てしなき流れの果てに」という作品がある。
タイトルのとおり、「時の流れ」をテーマにしたSFだ。
永遠に流れ続ける不思議な砂時計が登場する。

この小説を海外で出版するとすれば、「流れ」をどう訳すのだろう?

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