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2015年5月 2日 (土)

ミラボー橋(その2)

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる…。

私のお気に入りのシャンソン「ミラボー橋」はこんなフレーズで始まる。
前回ご紹介したように、訳詩は堀口大学のものである。

セーヌ河は流れない。
流れるのは、川にたたえられた水である。
ことばの巧妙なすり替えではないか?

無粋だけれども、前回はそんなへりくつをこねてみた。
ことばの正確さとは何か、ということを考えてみたかったからだ。

大人げないへ理屈をこねまわしてわかったことは、ことばにおける正確さとは数学的な正確さとは異なるということだ。
言語における正確さとは人間の生理的実感に適合しているかどうか、なのだ。

だから「川が流れる」という表現は英語でもフランス語でも受け入れられている。

ミラボー橋の橋げたから、あるいはセーヌ河のほとりから流れてやまない水を眺めるとき、わたしたちには「川が流れる」という表現が、生理的実感を伴って湧き上がってくる。

そういえば、鴨長明も「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず…」と記している。
「川が流れる」のは、時間と空間を超えた人類共通の生理的実感なのかもしれない。

生々流転、諸行無常…。

前回もお話ししたように「ミラボー橋」を聞いていると、私はそんな感興にとらわれる。
みなさんはどうだろうか?

詩の中では、「流れる」という動詞がキーワードとしてくりかえされる。
「去る」、「ゆく」、「過ぎる」、「死ぬ」、「帰って来ない」という句も喪失感を深める。

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

暮れゆくパリの空に聖堂の鐘が響きわたる。
その鐘の音が、なぜか「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり…」というフレーズを連想させる。

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

このリフレインは、5音、5音、7音、7音から成り立っている。
日本語話者にとってこころよいリズム感がかもし出されている。

堀口大学はその点も計算して、月日が「流れる」と訳したに違いない。
他の人の訳では「流れる」の個所が「過ぎ去って」になったりして、リズム感がやや崩れる。

問題は「月日」が本当に「流れる」かどうかだが…。

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