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2015年5月30日 (土)

ミラボー橋(その6)

シャンソン「ミラボー橋」にずっと耳を傾けている。

3拍子の流れるようなメロディ。
そしてさらに流れるような堀口大学の訳詩。

「流れる」はこの曲のキーワードだけれど、原詩でも英訳でも「流れる」に相当する動詞が用いられるのは「セーヌ川」に対してだけである。

「月日」や「時」に対しては、「過ぎ去る」に相当する語が当てられている。
たぶん、「時間が流れる」という表現を許す生理的実感が存在しないからだろう。

では、「流れる」と「過ぎ去る」ではどう違うのだろう?

「時が去る」
「月日が過ぎる」
そして複合動詞を用いて、「歳月が過ぎ去る」…。

たとえフランス語でも英語でも、このような表現に出会うと人は反射的に「そして、私だけが取り残され…」という感覚(実は錯覚)にとらわれる可能性が高い。

そして思いは生々流転、諸行無常へとつながっていく…。

そうであれば、日本風に「流れる」という動詞を用いた場合と効果においてさほどの違いはないように思うのだが、どうだろう?

それとも、西洋の人々はわたしたち日本語話者と時間に関する観念が根本的に違うから、無常観とは無縁なのかもしれない。

時が「過ぎ去る」ものであれ「流れる」ものであれ、問題はその行き先である。

キリスト教の世界観では、時間は直線構造をなしている。
「最後の審判」のときに向かって、まっしぐらに進んでいる。
そのゴールに到達した後は時間は消滅して、あとは「永遠」だけが世界を支配することになる。

なるほど。
こんな時間観念であれば、無常観とは無縁なのも無理はない。

インド的、仏教的世界観では、時間は円環構造をなしている。
だから、輪廻転生などといったりする。
天体の運行や四季のめぐりなどの経験的事実から、この時間観念はわりに受け入れやすい。

けれども、わたしたちにおなじみの無常観とはどこか違うような気もする。

日本語話者は西洋やインドの人々と違って、時間の構造を考察したりはしない。
流れ去るその行き先を突き止めようともしない。

ただひたすら流れ去る「時間」を凝視している。
そして、「流れ」そのものを愛惜する。

人類史的にみれば、かなり特異な時間観念かもしれない。

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