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2015年5月15日 (金)

ミラボー橋(その4)

このところシャンソン「ミラボー橋」のメロディが流れ続けている。

こうしていると
二人の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる

そして、

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

それにしても、どうして日本語では「時」や「月日」は「流れる」のだろう?
どうして「川が流れる」ように「時間が流れる」のだろう?

わたしたちは川のほとりに立って流れ去ってゆく水を眺めるのと同じように、「時の流れ」を見送っているのだろうか?
堀口大学はセーヌ河の流れと歳月の流れを重ね合わせているけれど、それでいいのだろうか?

そうじゃないと思う。

川の(水の)流れを眺めるのとは違って、わたしたちは「時間」に対して静止してはいない。
わたしたちは「時の岸辺」にたたずむことはできない。
「時の流れ」に否応なく巻き込まれ、同じように「どこか」へ流れて行っているのだ。

だから、本当はわたしたちは客観的に「時の流れ」など感知できるはずがない。
「月日は流れ わたしは残る」というフレーズを素直に受け取ると、過ぎ去る時間に対して私だけが取り残されることになる。
あり得ない話だ。

なのに、当り前のようにみんな「月日が流れる」という。

川と違って、時間は目に見ることも手で触れることもできない。
本来、「ある」か「ない」かさえ確かめようのないしろものだ。

そのような抽象的きわまりない概念に対して「流れる」という液体の運動をあらわす動詞をあてがうというのは、どのような発想のなせるわざだろう?

「川が流れる」という表現は人類共通の生理的実感にもとづいている。

しかし「時が流れる」という表現はそうではない。
げんにミラボー橋の原詩や英訳ではそのような表現はない。

もしかしたら日本語話者特有の感受性なのかもしれない。

いやいや、ちょっと待った。
ことは時間と言語にかかわる重大なテーマである。
そう結論付けるのは性急というものだ。

たしかに英語やフランス語では「時は流れない」かもしれないが、もっと視野を広くしてさまざまな言語圏をチェックしてみなければなるまい。

時の経過という抽象的現象に対して、「流れる」に相当する動詞を用いる言語がほかにもあるかどうか?
中国語では、シンハラ語では、デンマーク語、マレー語ではどうなのだろう?

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