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2015年4月24日 (金)

ミラボー橋

私の好きなシャンソンに「ミラボー橋」というのがある。
わりに有名な曲だからごぞんじの方も多いに違いない。

アポリネールの詩が流れるようなメロディに乗って歌われるのがすてき。

訳詩はいろいろあるようだけれども、堀口大学訳が気に入っている。

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

そんなフレーズが詩の中で何度も何度もくりかえされる。
いいなあ…。

詩の中では、「流れる」のほかに、「去る」、「ゆく」、「過ぎる」、「死ぬ」など「わたし」から遠ざかってゆく意味の動詞がちりばめられている。

詩の主題はパリを舞台にした恋なのだけれど、生々流転、諸行無常の東洋的な感興がわく。
そんなところがこの曲が日本で受ける理由だろうか?

しかしそんな感興とは別に、この訳詩には変なところも多い。

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる…。

訳詩はこんなフレーズで始まる。

しかし本当は河は流れない。
セーヌ河そのものはどこにも流れない。

ミラボー橋の橋げたから下を眺めると、セーヌ河にたたえられた水が下流に向かって流れているのだ。

君ねえ、そんなのはへ理屈だよ。
せっかくの感興が台無しになってしまうじゃないか。

そう言われそうな気がする。

たしかに「河が流れる」と言っても、だれも不思議に思わない。
美空ひばりさんにも「川の流れのように」という曲があった。

川そのものは不動なのに、「流れる」という液体の運動を意味する動詞を用いてある情景を描写する。
「流れる」主体は「川」という地形でなく「川にたたえられた水」なのだけれど、そこでは巧妙なすり替えが行われている。

みんな暗黙の了解のうえでこのすり替えを受け入れているのだ。

「川が流れる」という表現は日本語固有のものではない。
ミラボー橋の英訳では、「Under the Mirabeau bridge flows the Seine」となっている。
そもそも原語でも、「Sous le pont Mirabeau coule la Seine」となっている。

なんと言語の正確さを尊ぶフランス語でさえ、「セーヌ河が流れる」と言っているのだ。

「川の水が流れる」ことを「川が流れる」とすり替えて表現するのは、個別の言語を超えた人類共通の普遍的な現象なのだろうか?

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