« ペットとしての漢字 | トップページ | 漢字の未来 »

2015年2月27日 (金)

漢字の運命

これまで日本列島にやってきた漢字のあり方をめぐって、主にその使い手の側から眺めてきた。

しかしこれでは片手落ちかもしれない。
当の漢字本人はどう考えているのだろう?

「ぼくはこれからまだ文字を知らない島に渡って、倭国の文化振興にがんばるぞ!」
そんな使命感、意気込みを持ってインストラクターとともに渡来したかもしれない。

以来かれこれ2千年…。

すっかり長くなった日本暮らしを回顧して、いま漢字はどんな感慨を抱いているのだろう?
漢字に物言う口があればぜひとも聞いてみたい。

日本列島の素朴な人々に最初は珍重され、やがて親しまれ、いつしかすっかり愛されるようになった。
「漢字がなければわたしたちの文化は成り立ちません」とまで感謝されるようになった。

漢字本人も人々の熱い期待に応えるべく、大いに汗をかいた。
日本のエクリチュールのなかで獅子奮迅の働きをした。
そうして日本の精神文化の形成に何がしか貢献した…。

そんなふうに密かに自負しているかもしれない。
所期の使命を遺憾なく果たして、自足しているかもしれない。

それならいいのだが、まったく別の推測も成り立つ。

日本列島の人々は漢字が当初思っていたよりもはるかにしたたかだった。
初めのうちこそ珍重されたものの、そのうちどうも使い勝手がいまいち、と文句を言う人が多くなった。
そして漢字に何の断りもなくひらがな、カタカナを作り上げてしまった。

漢字本人にして見れば、自分の体を変形されたり一部を拝借されてまったく別の文字体系を作られてしまったのだ。
自分が母体になったのだから子供と言えば言えるのだけれど、自分の意思じゃないからどうも違和感がある。

その鬼っ子と無理やり同居させられてしまった。
居心地はどうなのだろう?

その上、日本の人々の漢字の読み方ときたら!

「信」や「光」が「しん」や「こう」と読まれる。
生まれ故郷の固有音とはちょっぴり発音が違うけれど、これは日本語の音韻体系が異なるからやむを得ない。

「光」に「ひかり」という和訓を当てるのも、事情が事情だからまあ許せる。

しかし日本の人々が「信」や「光」に、「のぶ」や「みつ」という固有音や語義とは何の関係もない名乗り訓をあてがうのはいかがなものだろう。

さらに「時雨」や「山葵」などの熟字訓に至っては、漢字を用いたクイズ遊びと言うほかない。

自分は日本のエクリチュールのなかで獅子奮迅の働きをした。
そう自負していたけれど、本当はいいようにもてあそばれただけかもしれない…。

漢字のアイデンティティは、形音義のトライアングルにある。
しかし熟字訓では音が無視され、名乗り訓では音も義も無視されている。

そう、日本では漢字のアイデンティティは軽く見られている。
日本における漢字は、漢字そのものにとってもその使い手にとってもまことに両義的な存在だ。

本当のところ、日本で暮らす漢字はしあわせなのか、それともふしあわせなのか?
しかし、漢字は黙して語らない。

|

« ペットとしての漢字 | トップページ | 漢字の未来 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ペットとしての漢字 | トップページ | 漢字の未来 »