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2015年1月 5日 (月)

「する」と「やる」

結果動詞「なる」と行為動詞「する」は何かと対立的に論じられる。

しかし、よく掘り下げればルーツは同じである。
そして日本語話者にとってはよきコンビでもある。

前回はそんなお話をした。

「なる」と「する」は、行為主体の扱いをめぐって対比的な関係にあるけれど、違いはもう一つあるように思う。
それは時間の要素である。

たしかに「歯磨きをする」にしても「食事をする」にしても時間はかかるのだけれど、「する」はその行為の時間には関心がない。
行為の瞬間を切り取っている趣がある。

これに対して「なる」はつねに時の経過を含意している。

農家の人が春に肥料を「やる」から、秋になってリンゴの実が「なる」。
一定の交際期間を経たからこそ、結婚「する」ことに「なる」のだ。

「春が来ると花が咲く。」
これは自然の事実を、端的に述べたまでのことだ。

「春になると花が咲く。」
この表現には長く厳しい冬を耐え忍んだ後に、という時間的感慨が含まれている。

ついで、というわけではないが上で「やる」という語が登場したのでこの語について少し観察してみたい。

上の場合の「やる」は漢字を用いて表記すれば「遣る」である。
「小鳥にえさをやる」も「人をやって手伝わせる」も同じ意味である。

しかし、「その仕事は僕がやる」や「年の瀬はやる事がいっぱいある」となるとどうか?
この場合は、「する」とほぼ同じ意味だと思う。

そのほか、相手に恩恵を与える場合の補助動詞としても用いられる。
「その仕事はわしがしてやる」などと言う。

「する」がごくあっさり行為を表現するのに対して、「やる」は多義的でどこかとらえどころがない。
原義は何だろう。

「その仕事は僕がやる」と「その仕事は僕がする」はまったく同じだろうか?
それとも何かニュアンスに違いがあるのだろうか?

「やる」にはどこか「他人」の影がちらついているような気がかすかにする。
「その仕事は他の人を差し置いてでも僕がやる」
これに対して「する」は他人のことは念頭にない。

そんな違いがあるような気もするけれど、自信はない。
「気がする」という頼りない言い方ばかりで申し訳ない。

私自身を内省してみても、どちらも使っているような「気がする」。

おそらく無意識に発話しているのだけれど、その選択のメカニズムはどうなっているのだろう。
自分の無意識に尋ねてみたい。

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