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2015年1月26日 (月)

ことばの東西

前回は「この世」の始まりについて、旧約聖書の創世記と古事記を読み比べてみた。
つまり、わたしたちが生きているこの世界の起源を西洋文化と日本文化がどう捉えているかを対比してみた。

対比の結果明らかになったのは、「ことば」の存在感の違いである。

創世記は、神さまが「光あれ!」とことばを発したことからこの世が始まったと語っている。
つまり、この世には起源がある。

しかし創世記の記述に従うなら、神さまはその起源に先立って存在していたことになる。
つまり、神さまには起源がない。

神さまとともにあった「ことば」も、したがって起源がない。
このアイデアは、わたしたち凡人の想像を絶している。

創世記には天地創造の後も、バベルの塔事件などことばにかかわる重要なエピソードが記されている。

「はじめにことばがあり、ことばは神のところにあり、ことばは神であった…」
新約聖書に至っても、このような記述が見出される。

要するに、西洋文化では神さまとことばは特別扱いされている。
ことばへのこだわりが異常に強いのだ。

キリスト教に先立つギリシャ文化でも、「ことば」のあり方は主要な哲学的テーマだった。
古代、中世、近代を通じて、かれらはことばをめぐっていつ果てるともしれない議論を続けている。

そこへ行くと古事記以来の日本文化は、ことばにあまり関心を払わない。

ことばなんて空気のようにあって当たり前のもの。
なんでわざわざむずかしく考える必要があるの?

そんな意識がありありとうかがわれる。

ならば、わたしたち日本人はことばに対して冷淡なのだろうか?

そうじゃないと思う。
ことばを道具として割り切っているのだ。

道具としてのことばにはたっぷり愛情を注いでいると思う。
そしてその道具を操ることによって、自然をたたえ人情の機微をあらわすことに長けている。
そのことを心から楽しんでいる。

日本列島は言霊の幸はう国なのだ。

新聞には必ず短歌や俳句のコーナーがある。
日本列島の津々浦々で、今日も名もないふつうの人々が詩歌を作って楽しんでいる。
こんな国はわりに少ないのではないか?

このようなことを思うにつけ、日本と西洋とではことばの性質、ことばと人間の関係が大きく異なるように感じる。

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