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2015年1月17日 (土)

「なる」と「する」(その2)

ものごとの根源にさかのぼって、その起源を確かめてみたい。
「ない」が「ある」に変貌する神秘的な瞬間に立ち会ってみたい…。

そんな衝動はだれにでもある、というお話から「いる」、「おる」、「なる」、「する」、「なす」、「やる」など一群のシンプルで美しい動詞たちが登場した。
これらの動詞は起源の周辺で、謎めいた働きをしている。

ものごとの根源の中でも、肝心かなめは「この世」である。

貨幣にせよ、家族にせよ、土鍋にせよ、宗教にせよ、みな「この世」が誕生してから後の話だ。
「この世」が生まれなければ何もない。

そこで人々は「この世」の誕生について語らなければならない。

「この世」の誕生のいきさつをめぐって、西洋では「する」が主役を担っているのに対して、日本では「なる」が大きな役割を果たしている印象がある。

旧約聖書の創世記では、神さまがカオスに向かって「光あれ!」と命令「する」。
すると、光があった。

引き続いて、神さまは次々に存在命令を発して「この世」を形作っていった。
そんなふうに語られている。
善かれあしかれ、天地創造の瞬間、その主体と行為が明示されている。

一方、古事記は次のように語りはじめる。

天地のはじめの時、高天原に「なり」ませる神の名は…。
そんな言い方で、なんとなく影の薄い三柱のひとり神の名を紹介する。

創世記では、神さまの「光あれ!」という命令が「この世」の始まりの号砲だ。

これに対して古事記では、そんな号砲は聞こえない。
起源があるようでないような感じ。

現れてはすぐ消える天御中主の神以下の神さまたちも、だれかの命令で誕生したわけではない。
「おのずから」あらわれている。
まさに「なる」の神髄である。

もちろん、具体的な国土形成はだれかがしなければならない。
だから、イザナギとイザナミは天の沼矛をかき回しておのころ島を作り上げた。
ようやく「する」が登場したのだけれど、それは「なる」のずっと後のことだ。

日本語の世界では「なる」が「する」に先行している。
その優位は天地開闢以来変わらない。

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