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2014年12月 7日 (日)

「ある」と「いる」(その2)

前回は存在をあらわす動詞「ある」と「いる」を比べてみた。

語形は酷似している。
そしてシンプルで美しい。

「ある」と「いる」の違いは無生と有生、というのは教科書的理解にとどまる。

人についても場合によっては「ある」が用いられることがある。
無生物についても場合によっては「いる」が用いられることがある。
両者を分かつ鍵は可動性への認識だ。

野原に転がる石についてはどんな場合でも「石がいる」とは言えない。
人については、可動性を問題にしない場合は「人がある」とも言える。
逆に可動性に注目する場合は無生物であっても「渋滞の先頭にバスがいる」と言える。

だから、植物は生物ではあっても自ら動くという能力を持たないので、「庭に柿の木がいる」とは言えない。
「子供のころ庭に古い梅の木があった」と言う。
石と同じく無生扱いである。

不思議に思うのは細菌やウィルスの扱いである。
「ばいきんがいるかもしれないので、ちゃんと消毒しておきなさい」と言う。
「ばいきんがあるかも…」とは言わないように思う。

たしかに顕微鏡下で観察すると、細菌やウィルスは動いている。
しかしその動きには人や高等動物の動きのような主体性が認められない。
いわば風に吹かれて転がる小さな石と同じような動きではないだろうか?

それにそもそも細菌やその動きは通常人の感覚では捉えられないものだ。
なのに細菌が「いる」という。

何故だろう?

科学の発達のおかげでわたしたちは細菌という生物が「いる」ことは知識として知っている。
そしてその細菌が人体に入ってさまざまな悪業をなすことも知識として知っている。

その「悪業をなす」という作用のうちに細菌の「たくらみ」というべき主体性を認めて、わたしたちは細菌を言語的に有生として扱うのだろうか?

対象の可動性や主体性に着目して存在動詞を使い分ける。
日本語のこのような特徴は他の言語にも認められるのだろうか?

英語や中国語ではどうだろうか?
クメール語やシンハラ語やバスク語ではどうだろうか?

識者のご教示を待ちたい。

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