« 存在と無 | トップページ | 「する」と「やる」 »

2014年12月28日 (日)

「なる」と「する」

農家の人が丹精こめて世話を「する」から、おいしいリンゴの実が「なる」。
行為動詞「する」の働きがあってこその結果動詞「なる」なのだ。
断じてその反対じゃない。

なのに、「なる」ばかりが脚光を浴び「する」の苦労は顧みられない。
これじゃあまりに「する」がかわいそう…。

前回はそんな風に「する」に同情を寄せたところで終わった。
これは私の勝手な同情なのだけれど、当の「する」はこのことについてどう考えているのだろう?

「する!」と言い切ったからには、否応なく行為の主体が前面に立ち現れる。
主体がしゃしゃり出るなんて、そんなはしたないことはしたくない。
奥ゆかしい「する」はそう考えているのかもしれない。

だから、「なる」ばかりが注目を集めても「する」は文句ひとつ言わず縁の下の力持ちに甘んじている。

「私たち、結婚します!」という力強い宣言もあり得るけれど、「私たち、結婚することになりました」という言い回しのほうがナチュラルに聞こえる。

みずから「する」のだけれど、おのずから「なる」ように装う。
これが日本語話者の流儀なのだ。

結婚だけに限らず、「○○することになる」という言い回しは実によく使われる。
「する」で行為の主体が立ち上がり、「なる」がその主体の生々しさをやわらげる。
「する」と「なる」はいいコンビかもしれない。

ところで自動詞「なる」はペアとして他動詞「なす」を持っている。
「なすすべもない」と言ったりする。

辞書には「する、行うのやや改まった言い方」と解説されている。
つまり「なす」と「する」は同じ意味なのだ。

なんと「なる」は「なす」を介して「する」とつながっていた。
単なるコンビどころではなく、出自は同じだったのだ。

「する」は行為主体の責任を明示する。
「なる」は行為主体の責任をあいまいにする。

日本文化論の中で、「する」と「なる」は対立的に論じられてきた。
しかし、日本語話者は「する」と「なる」を併用するという裏技を発明してその対立を止揚することに成功したのだ。

|

« 存在と無 | トップページ | 「する」と「やる」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 存在と無 | トップページ | 「する」と「やる」 »