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2014年12月21日 (日)

存在と無

「種の起源」、家族の起源、貨幣の起源。
生命の起源、宗教の起源、宇宙の起源、そして言語の起源…。

何であれ、「起源」ということばはわたしたちを惹きつけてやまない。
それは「ない」状態から「ある」状態へ移り変わる神秘的な瞬間だからだ。

「無」の状態を指して、わたしたちは形容詞「ない」という。
「有」の状態を指して、わたしたちは状態動詞「ある」という。

「無」はそれ以上分析することは不可能だ。
だから、「ない」というひとつの語だけで足りる。

しかし、「有」はその存在のあり方をさらに分析することができる。
だから、「ある」という語のほかに「いる」があり「おる」がある。

ところで、何かが「ない」状態から「ある」状態へ移行するためには、何らかの「はたらき」が欠かせない。
神さまにしろ人間にしろ、昼寝ばかりしていては何も始まらない。

たとえばはじめ土鍋はなかった。
しかし、「温かくうまいものが食いたい」という人類の渇望、そしてたゆまぬ知恵と工夫、惜しみなく手を動かす労働…。

それらの「はたらき」があって、はじめて人類社会に土鍋が誕生した。
土鍋の起源ひとつをとっても、そこには壮大なドラマがあったのだ。

「ない」状態に対して何らかの「はたらきかけ」があり、その結果「ある」状態に移り変わる。

春、リンゴの木にはまだ実は「ない」。
しかし、リンゴ農家の人たちは肥料をやり枝打ちをしてリンゴの木に「はたらき」かける。
すると夏の終わりから秋にかけて、赤くおいしく熟したリンゴの実が生まれる。

この一連のプロセスを指して、わたしたちはリンゴの実が「なる」という。
「なる」は「ない」と「ある」を架橋する語なのだ。

しかし農家の人たちが昼寝をしていてはリンゴの実はならない。
リンゴの木に対してきめ細かな作業を「する」からこそ、実は「なる」。

結果動詞「なる」は行為動詞「する」に、いつも支えられている。

それなのにわたしたちはつい結果に目を奪われて、それを生み出した「する」の苦労を忘れがちだ。
時々、「する」がかわいそうに思える。

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