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2014年11月30日 (日)

「ある」と「いる」

これまで、「ある」と「ない」を見比べてきた。
古い形ならば「あり」と「なし」。

ところで、存在をあらわす動詞としては「ある」のほかに「いる」というのがある。

同じく存在をあらわす状態動詞だけれど、「ある」は無生、「いる」は有生。
そんなふうに、日本語教師になる勉強をしているときに習った。

無生、有生なんてのは辞書には載っていないが、日本語学、日本語教育学の特殊な術語なのだろうか?

ともあれ、対象が人や動物のときは「いる」を用い、そうでない場合は「ある」を用いる。
そんな使い分けだとされている。

だから、「縁側に猫がいる」といい、「縁側に猫の本がある」という。

面白いことに、否定詞「ない」は「ある」には付くことができないが、「いる」には付くことができる。
だから、「縁側に猫はいない」ということができる。

よく考えてみれば不思議なことだ。
同じ存在をあらわす状態動詞でも、「ある」と「いる」では活用形式が違うことと関係があるのだろうか?

「ある」は無生、「いる」は有生という区別は、現代語では確かにそうだけれども、少し時代をさかのぼれば当てはまらなくなる。

少し前には人や動物の存在に対しても「ある」を用いることができた。
「仁和寺にある法師」、「吾輩はここにあり!」などと言ったりした。

古語辞典によれば、「いる」は「止まって動かず、じっとしている」意味をあらわす語だったそうだ。
大事なのは、本来動けるものが一時的に「止まって動かず、じっとしている」状態を指しているということだ。

そして「本来動ける」という属性に焦点を合わせ、「止まって動かず、じっとしている」のが一時的な状態であると認識したとき、人や動物についてもっぱら「いる」が用いられるようになったのだ。

今でも「渋滞の先頭にバスがいる」などと、無生物でも「いる」を用いることがある。
バスという「本来動ける」ものが「止まって動かず、じっとしている」状態をあらわしたいとき、「いる」という語が不意にあらわれる。

逆に「本来動ける」という属性にこだわる必要がない場合は、人についても「ある」が用いられる場合がある。
たとえば「おれには大勢の支持者がある」などのように…。

ことばの原義は時代を経ても生命力を失わないものだ。
まるで伏流水のように。

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