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2014年11月15日 (土)

「ある」と「ない」(その3)

「ある」と「ない」の挙動を観察していると、対照的な性質を持っていることがわかる。

「ある」は体言の頭につき、「ない」は用言のお尻につく。

「ある日、ある作家がある会場である話をした」などと言う。
この場合の「ある」は、辞書では体言を修飾する連体詞として動詞「ある」とは別の語として扱われている。

特定の事物を指しているのだけれど、その特定内容を明らかにするまでもない場合に用いられる。

加古川市に市民会館が「ある」。
そこで「ある」作家が講演をした。
その地名や人名を明らかにする必要がない場合、「ある」会場、「ある」作家という表現で片づける。

会場が「ある」から「ある」会場と言うことができる。
辞書では別の語とされているけれど、源は同じだ。

「ない」は単独でもりっぱな形容詞である。
品詞にこだわるなら、「食べない」、「寒くない」など否定の助動詞としても働く。
それだけでなく、「ない」を語尾に持つ形容詞もすこぶる多い。

みっともない、かたじけない、とんでもない、やるせない、あどけない、しどけない、いたいけない、ぎこちない、だらしない、はしたない…。
逆引き広辞苑をひもとくといくらでも出てくる。

そこでいつも思うのは、お尻の「ない」は否定詞として、じゃあ「あどけ」や「かたじけ」や「ぎこち」とは何だろう、ということである。

分かりやすい場合もある。
たとえば「やるせない」なら、「遣る瀬」という名詞と否定詞「ない」に分解することができる。
だから「やるせ」が「ない」状態をあらわす複合形容詞だということが分かる。

しかし、よくわからないことも少なくない。
たとえば「ぎこちない」の場合。

「やるせない」と同じように「ぎこち」と否定詞「ない」に分解できるだろうか?
分解できたとしたらその「ぎこち」とは何か?
辞書によれば、もとは「ぎこつなし」であったそうだから「気骨」だろうか?

では「ぎこちない」は「骨抜き」の状態?
意味はまるで違うように思う。
骨がありすぎて滑らかな動きができない状態をいうのだ。

また、「あどけない」の場合。
同じように「あどけ」と否定詞「ない」に分解できるだろうか?
分解できたとしたらその「あどけ」とは何か?
「あどけない」とは「邪心がなくかわいらしい」という意味だから、「あどけ」とは「よこしまな心」という意味だろうか?
しかし、広辞苑でも古語辞典でも「あどけ」なんていう語はみあたらない…。

丁寧に辞書や参考書を調べていけば納得のゆくこともある。
たとえば、「とんでもない」における「とんでも」は「途でもない」からの転訛だと辞書では説明されている。

歴史とともに本体部分が転訛に転訛を重ねてゆくことで、もとの形と似ても似つかないものに変わってしまう。
そして、現代のわたしたちにはわからなくなってしまう
きっとそんなメカニズムなのだ。

本体部分は変化を繰り返しても、「ない」は変わりようが「ない」。
しかも、「ない」は「ある」に比べて他の語との結合の強度が強い性質を持っている。

こうして、「ない」をお尻にくっつけた変な語が数多く成立する。

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