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2014年11月 3日 (月)

「ある」と「ない」

起源とは「ない」状態から「ある」状態へ飛躍する劇的な瞬間である。

というのがこれまで繰り返しお話してきた定義だった。
たとえば、貨幣がない状態からある状態へ移り変わった瞬間が、貨幣の起源ということになる。

ところで「ない」にせよ「ある」にせよ、状態をあらわす語である。
状態としては正反対、対称的な位置にある。

「お金がない」
「お金がある」という。

正反対の事態をあらわしている。

しかし、「ない」は形容詞、「ある」は動詞である。
事態は対称的であるのに、なぜか品詞としては対称性が崩れている。

なぜお金が「ない」状態は形容詞であらわし、お金が「ある」状態は動詞であらわすのだろう?

英語なら、「お金がある」は「I have money」という。
「お金がない」は「I have no money」あるいは「I have not money」という。
「have」という同じ動詞が用いられ、否定詞の有無で正反対の事態をあらわしている。
文法的な対称性は保たれているのだ。

ふつう状態をあらわすには形容詞を用いる。
状態が正反対の場合には、ちゃんと対になる形容詞が用意されている。

長いと短い。
高いと低い。
暑いと寒い。
善いと悪い。

ところが、「ない」という形容詞には対になる形容詞が「ない」。
対になるべき語は「ある」という動詞で「ある」。

もちろん、「ある」にも言い分は「ある」。

私は姿形こそ動詞になっていますが、動作をあらわす動作動詞ではなく状態をあらわす状態動詞という者です。
つまり限りなく形容詞に近いんです。
だから「ない」という形容詞と対になったってかまわないじゃありませんか!

そういう「ある」の主張も分からぬではないが、英語のきれいな対称性に比べるとどうしてもすっきりしない気持は残る。

「ある」という状態は不変のものではない。
「ある」の程度には変化つまり動きがありうる。
お金がある状態でも「一億円ある」状態から「百万円ある」状態に変化する場合は珍しくない。
「ある」は動きのありうる状態をあらわすから動詞を用いる。

こんな説明があるけれど、納得はできない。
「ない」という状態だって、永久不変ではなく「動き」はありうるのだ。

西欧の文化は対称性を喜ぶ。
ベルサイユ宮殿の庭園を思い浮かべればわかる。

これに対して日本文化は対称性の崩れを喜ぶ。
日本庭園を訪れればすぐにわかる。

このような文化的な差異が「ある」と「ない」に反映した…。
こんな解釈のほうがまだしも説得力があるような気がする。

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