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2014年10月17日 (金)

起源の探求(その2)

存在するかどうかも定かでない「言語の起源」。
その探求に取りつかれて一生を棒にふった人は数知れない。

前回はそんなお話をした。
そんなお話をした後ですぐ気がつくのは日欧の対照である。

言語の起源の探求にのめりこんで一生をパーにした人は確かにヨーロッパには多かったが、日本語話者の場合それほどでもないような気がする。

ちゃんと調べたわけではないのでいい加減なことは言えないけれど、どうもそんな印象がある。

「言語の起源」あるいは「起源の言語」。
このテーマをめぐってヨーロッパでは2千年来執拗に議論が繰り広げられてきた。

その背景にはやはりキリスト教の存在が大きいと思う。
そもそも神さまが「光あれ!」とことばを発したことから世界が始まったのだから。

それから、アダムが鳥獣に名づけをしていった次第。
バベルの塔事件で世の中のことばがばらばらになったエピソード。
何より「はじめにことばありき」という唯言論みたいな宣言。

聖書にここまでたたみかけられたら、誰だってことばにこだわらざるを得ない。

それにキリスト教以前から、ヨーロッパにはことばを思考の対象にする習慣はあった。

たとえばプラトンの「クラチュロス」では「名の正しさ」をめぐる議論が展開されている。
「名の正しさ」つまりたとえば「いぬ」という名はそれが指す生き物の本性とどうかかわっているのか、という問題だ。

ひるがえってギリシャ哲学もキリスト教もなかった日本列島。
人々は、「名の正しさ」や「言語の起源」や「起源の言語」などの問題にあまり関心を払ってこなかった。
ことばという現象を自覚的に思考の対象として取り上げる習慣はなかった。

日本語話者にとってことばとは空気のようなものだったと思う。

それがなければ1日も生きていけないものなのに、ふだんはそれを露ほども意識しない。
あって当然、あらためて思考の対象として取り上げるものばかばかしいほど当たり前のもの。

日本語話者はことばをそんなふうに受け止めてきたのではないか。
いや、そもそも受け止めるという意識すらなかったかもしれない。

古事記、万葉以来、あるいはそれ以前から日本語話者は日本語を空気のように呼吸して生きてきた。
空気そのものについては何も考えなかったものの、その呼吸自体が日本の豊かな言語文化を育ててきた。

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