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2014年9月19日 (金)

名前の重み

名詞だけではなく、動詞も形容詞も広い意味では「名前」といえるのではないか。
前回はそんなお話をした。

だとすれば、「ことばとは名前のことである」という大胆な定義も成り立つ。
すると、「はじめにことばありき」というヨハネ福音書の記述も次のように置き換えることができる。

はじめに名前があり、名前は神のところにあり、名前は神であった…。

こうしてみると、名前がいかにただならぬ存在であるかが分かる。
たしかに、すべては名前から始まるのだ。

そもそもこの宇宙は、「光あれ!」と神さまがある光学現象の名前を口にしたことから始まった。
マタイ福音書もイエスに連なる人々の名前を挙げることから始まるし古事記も高天原の神々の名前を紹介することから始まる。

そういえば夏目漱石の「こころ」も主人公の名前について語ることから始まっている。
「私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。」

はじめに名前があり、名前は神のところにあり、名前は神であった…。

わたしたちは日ごろ名前を単なる符牒あるいは人間やものごとに対して貼り付けられたラベルのようなものとみなして、つい軽く考えているふしがある。

反省しなければならない。
「名前神社」くらい作ってもいいかもしれない。
古代ギリシャ人だってことば=名前を神格化したのだ。

そう考えると人やものごとにたいして名前を付ける、名付けるという行為はずいぶん神聖な行為なのだ。

ただし、現代を生きるわたしたちは神さまやアダムではないから、自由気ままに命名することはできない。
たとえば、「電話」や「TELEPHONE」のように、むかしから受け継がれてきたことばを結合したり、変形することしかできない。
窮屈なのである。そこがつらい。

自由気ままに命名して神さまの気分が味わえるのは、せいぜいわが子の名前を付けるときぐらいだろう。

このときだけは音や文字を自由にあやつることができる。
道理で最近は凝って凝って凝りまくった名前が多いんですね。

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