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2014年9月 5日 (金)

「名前」をめぐる妄想

前回「な」をめぐって妄想をたくましくしたものの、結局「な」の深奥に迫る手立てが私にはないことがはっきりした。

「あきらめてね」と「な」から引導を渡されたのだ。
私はこう見えてもいさぎよいほうだから、ここまで言われたのならすんなり引き下がるとしよう。
人間引き際が大切だ。

ただ、何の成果もなく引き下がるのは業腹である。
「な」のうち、せめて「名前」についてだけでももう少し考えさせてほしい。

「それくらいなら、いいわよ」。
そんなふうに「な」からお許しが出たことと勝手に解釈して先に進もう。

むかし「君の名は」というドラマがはやった。
この場合の「な」は「名前」とまったく同義である。

ということは、「な」は「名前」の省略形なのだろうか?

それとも「な」が先行して、あとから「まえ」が付加されたのだろうか?
だとすると、なぜわざわざ「まえ」をくっつける必要があったのか?

語形成に関して似たような例があるだろうか?

広辞苑を引いてみても、「名前」の項では「事物の名称。名。」あるいは「氏名。特に苗字に対して、名」などとそっけない説明で片づけているだけだ。
私の疑問は素朴すぎてとてもまともに相手にする必要などない、ということだろうか?

なら、それでもいい。
もう辞書には頼らない。

いつの日か、私の疑問に対するめざましい答えをたずさえた白馬の騎士があらわれるのを待つとしよう。
一見素朴なつまらない疑問と思われたこだわりが、実は「な」の深奥に迫るカギを開示してくれるかもしれないのだ。

それはさておき。

「人の名、山の名、村の名前、ものの名前…」
わたしたちは日ごろ軽々しく「な」という語を口にする。

しかし考えてみれば、すべてのはじまりには「な」あるいは「名前」が立ちはだかっているのだ。

新約聖書は劈頭から「イエスの系図」と称してえんえんと人の名が紹介される。
「マタイ福音書」のこの冒頭から続きを読むのをあきらめる人も多い。

古事記も「高天原に成りませる神の名は…」と「な」をとなえることから始まっている。

そもそも神さまが「光あれ」と、光学的現象の「な」を挙げたことからこの宇宙が始まったのだ。

「な」や「名前」は決して軽々しく扱える代物ではない。

わたしたちも実は心の奥底では「な」または「名前」の神秘的な力を認めている。
このことは数回前このブログでもお話しした通りだ。

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