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2014年7月24日 (木)

姓と風景

ここしばらく山の名、川の名のお話をしていたのだけれど、いつの間にか話題が人の名に移ってきた。

現代日本人の名前は基本的に姓と名からなる二名法である。

名、つまり下の名はふつう親がつける。

「美しさに恵まれることを願って美恵子とつけたのだよ」
「博愛精神に富んだ人になってもらいたいと思って博之と名付けたんだ」

たいていの人はそんなふうに親から命名の理由や経緯を聞いて知っている。
そして親の恩愛を感じる。

しかし、姓つまり上の名になると、とたんに漠然としてくる。
いつ、だれがその姓を定めたのかさえはっきりしない。
まして命名の由来などさっぱりわからない。

もちろん私にも姓はある。
どちらかといえば珍しい姓である。

平家物語にも登場する姓だからそれなりに由緒はあるのだろうが、いつごろどのようないきさつでこれがわが家の姓になったのか、それを知る手がかりは何もない。

ふだんは何も気にせずに使っている姓だけれど、よく考えればミステリーだ。

姓は名とちがって特定個人を対象としたものではない。
時間と空間を超えた親族集団を識別するための標識である。

だから、下の名とは命名のメカニズムもまったく異なっていると思う。

下の名は親から子への最初の贈りものだ。
だから、名には親から子への「願い」が表現されている。
名は価値指向型という特徴を持っている。

それに対して姓はもっと素朴である。
日本列島の自然と人間が融合し、長い年月をかけて自然発生的に成立したような趣さえある。

上の田んぼに住んでいる人たちを指して、まわりの人々がいつしか「上田さん」と呼ぶようになった。
あるいは下の村に住んでいる人々の間で「下村」という親族記号が共有されるようになった。

そんな曖昧模糊としたプロセスだったかもしれない。

いずれにせよ、生活空間の中における特定の親族集団の位置を定めるという役割が姓にはあった。
その役割を考えれば、山、川、野、岡、石、森、田、島など価値中立的な景観要素が好んで姓に取り込まれた理由もわかるような気がする。

田中将大
中田英寿

この二人の名前(正確には氏名あるいは姓名といったほうがいいかもしれない。「名前」という語はややこしい)を思い浮かべるだけで、姓と名について上でお話ししたことをご理解いただけると思う。

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