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2014年7月18日 (金)

名の呪力

あれが阿多多羅山(安達太良山)
あの光るのが阿武隈川…。

目の前に大きな風景が広がっている。
そして目につく山や川をひとつひとつ指さしてはその名を恋人に教える。

ほほえましい情景である。
教える人は多分ちょっぴり得意な気分でいる。

それらの山や川を自分のものにした気分。
そしてかたわらにいる恋人も自分のものにした気分。

阿多多羅山にしろ阿武隈川にしろ、「名」があって本当によかった。
名無しだと恋人に自慢することができない。

山であれ川であれ、その名はいつかだれかがつけたものだ。

「いつか」ははるかに遠い昔。
「だれか」は多分特定の個人ではあるまい。
里人の集合的意識または無意識によって命名されたのだ。

前回お話しした日本人の姓の成立とよく似ている。

ただ、山や川とちがって人の名は気安く呼んではいけない。
その禁忌はわたしたちに深く共有されている。

だから、「高村さん、今度のプロジェクトの件ですが…」とは言わない。
「部長、今度のプロジェクトの件ですが…」と職名で代替する。

この禁忌は日本だけのことじゃない。
貴人や目上の人に対して直接その名を呼ばない、というマナ―は多くの文化圏に見られる。
対象に名をつけ、その名で呼ぶという行為はその対象を支配することにつながるからだ。

だから、本当の名前は家族以外明かさない、他人との間ではニックネームなど仮の符牒で間に合わせるという風習を持つ民族もあるくらいだ。

先日読んだ本にも次のような一節があった。
「アフリカの哲学の中心には、事物の名前を知ることはそれに対する支配力を身につけることだとの確信がある。」

名前はふしぎな「力」を持っている。
そんな観念は世界共通のようだ。

名は対象を指示する記号に過ぎない。
しかしその記号はなぜか呪力を帯びている。

山や川の名を呼び、恋人に教えた人のことを思い出してほしい。
かれ(彼女?)は、ひととき世界を自分のものにした気分に酔うことができた。

名の力、ことばの呪力が働いたのだ。

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