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2014年6月28日 (土)

海と洋

ようやく海が見えてきた。
山奥の源流から始まった長い長い川の旅も終わりに近づいたのだ。

白砂の浜がまぶしく光っている。
かと思えば、くろぐろとした岩礁も見える。
そのあたりは「磯ーいそ」と呼ばれている。

陸地が海に突き出たところは「○○崎」という岬だ。
その「○○崎」が抱く入江は、「なになに浦」と呼ばれている。

遠く近く、いくつもの島かげが見える…。

海にまつわる景観としてわたしたちにおなじみなのは、ざっとこんなところだろうか?

しかし船に乗ってどんどん沖合に乗り出していくと、やがてこんな景観要素は消え失せて一望千里の大海になる。

目に入るのは、海と空と雲だけ。
船人の目を慰める海鳥さえいない。

こんな時は「海上」にいると言うよりも「洋上」にいると言うほうが感じが出る。

そう、わたしたちは「うみ」に対して「海」と「洋」のふたつの漢字を持っている。

「海」はふつうの海、「洋」はでっかい海。
「川」がふつうの川、「河」が巨大な川を意味するのと同じである。

「川」に音と訓があるように「海」にも音と訓がある。
そして、「河」に訓がないのと同じく「洋」にも訓がない。

「河」に訓がないのは日本列島には黄河や長江のようなけたはずれの大河がなかったからだ。

では、「洋」に訓がないのはなぜだろう?

日本列島は海に囲まれていて、日本語話者は昔から海に親しんでいた。
その割には、陸地をはるかに離れて大海原に乗り出した経験が少なかった。
日本海航路にせよ太平洋航路にせよ、用心深く陸地伝いに航行したのだ。

だから、漢字伝来以前ふつうの海には「うみ」、巨大な海にはたとえば「ひろ」というふうに和語が分化しなかったのだろう。

それに、「うみ」という和語にはすでに「大きい」という意味が含まれていた。
むかしの日本語話者は湖であれ海であれ、大きな水たまりを指して「うみ」と言ったのだ。

だから太平洋や大西洋のような大きな海域についても、別の和語を用意する必要を感じなかったのかもしれない。

いずれにせよ、「海」と「洋」の関係は、「川」と「河」の関係と平行現象をなしている。

日本語話者は、川に関しては「川ーかわ」ひとつで間に合わせている。
同じように、海に関しては「海ーうみ」ひとつで間に合わせている。

それでいて、「河川」という熟語を愛用している。
同じように、「海洋」という熟語も愛用している。

ただ、「河」はあまり人の名前には使われないが「洋」は「洋一」とか「克洋」とか「洋子」などのように人名としてよく採用されている。

「海」ひとつで間に合うのだけれど「洋」の持つ「ひろびろ感」も捨てがたい、ということなのだろう。

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