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2013年12月22日 (日)

漢字の万華鏡

前回は「信」と「愛」というふたつの漢字を比較してみた。

その「信」と「愛」からの連想で「感」という文字にも思いが及ぶ。

「感」も「愛」と同じくらいあるいは「愛」以上に日本語の世界で活躍している。

「親しみを感じる」のように単独で用いられるだけでなく、「感情」、「感謝」、「感覚」、「実感」など「感」を含む熟語もおびただしい。
その点、「愛」や「気」と甲乙つけがたい。

「感」はその中に「心」を含んでいることからもわかるように、心の動きをあらわす文字である。
ひょっとすると「愛」以上に基本的で広範な心の動きをあらわしているかもしれない。

「感」もまた今日では訓を持たない。
あるいは「愛」の場合と同じく、漢字伝来以前に用いられていた和語が駆逐されてしまったのかもしれない。

「感」は「信」と「愛」のように人名に用いられることもない。
「信」のように人名に用いられて「のぶ」という特有の読みを持つこともない。

「感」はどこまでいっても「かん」のまま日本語の世界で活躍している。
日本語環境の中で不可欠の役割を演じながら、訓を寄せ付けず変な読みをかぶせられることもない。

白鳥は哀しからずや海の青空のあをにも染まずただよふ…。

そんなふうに歌った詩人がいたけれど、「感」にもそんな孤高の姿勢を感じる。
純粋漢字、そう呼びたくなる。

逆に「信」などは、日本語環境でもまれているうちに不純な要素が付着してしまったのかもしれない。

生まれ育った環境とまったく異なった世界で仕事をしていくのは大変なことなのだ。
「信」にも同情の余地はある。
不純漢字と呼ぶことは控えよう。

「信」といえば「信念」という熟語もある。
「念」は「信」とちがって人名に用いられることはほとんどない。
珍念という小坊主の名前はあるが、この場合も「ねん」と字音で読み「のぶ」のような人名専用の読みはない。
この点、「感」と同断である。

「愛」にせよ「感」にせよ「信」にせよ「念」にせよ、みな心の動きをあらわす文字である。
そして、うしろに「する」を付加することによって動詞化する。

その場合、「あいする」、「かんずる」、「しんずる」、「ねんずる」と字音のまま発音する。
(今日の口語では、「感じる」、「信じる」、「念じる」のほうが多数派になっているが。)

「恋」ももちろん「する」をつけて動詞化するが、「こい」というりっぱな訓を持っているので「れんずる」とは言わない。

漢字は日本に渡来することによって実に多彩なキャラクターを身につけた。
そして、まるで万華鏡のように千変万化の様相を呈するようになった。

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