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2013年11月23日 (土)

愛と恋

ここしばらく、「気」という漢字の「け」という読みが音か訓か、という問題について考察してみた。

もしこれが字音だとすれば、「気」という漢字には訓読みが存在しないことになる。

音読みは漢字があらわす中国語を日本風発音で読んだもの。
訓読みは、その漢字の持つ意味を和訳したもの。

つまり、訓読みが存在しないということは、漢字伝来以前にはその文字に対応する和語がなかった、ということを暗示している。

むかしは「気」というとてつもない存在をあらわす和語がなかった,なんてそんな理不尽なことがあっていいはずがない、という悲憤慷慨で前々回は締めくくった。

ただ、音はあっても訓は存在しない、という漢字はそれほど珍しくない。

たとえばいまではよく用いられる「愛」という漢字。

この漢字には「あい」という音読みだけがある。

もちろん「花を愛でる」というふうに表記することはあるけれども、これは意味に漢字を当てているだけで「愛」という単独の漢字に「め」という訓がある、ということにはならない。

つまり、漢字伝来以前には日本列島には「愛」をあらわす和語がなかった。
ということは「愛」に相当する概念がなかった、ということだ。

「気」の場合とはちがって、「愛」についてはこのことがよく納得できる。

かねてから「愛」という語あるいは漢字は、日本語の文脈の中で何となくしっくりこない感覚があった。
言いようのない違和感があった。

そうか、やっぱり「愛」は外からやってきた借り物の概念だったのだ。
そう思えば、「愛」に対する私の違和感がよく理解できる。

このことはペアで用いられる「恋」という語と比べるとよくわかる。

この漢字には「れん」という音と「こい」という訓がある。
「愛」とちがって「恋」は漢字伝来以前から日本語にあったのだ。

だから、「貫一さんが恋しい」という情緒はよくわかるけれども、「貫一さんを愛してるわ」というせりふにはどうしても直訳風の雰囲気がついて回る。
どことなくうそくさい。

もちろん、男女間の恋愛感情は太古から世界中どこでもあったにちがいない。
ただ、古代日本人はその感情を「恋」として認識しても「愛」として概念化することはなかった、ということなのだろう。

日本列島の人々は、原始時代このかた「愛」の不在の中で生きてきた。
だから、「キリスト教は愛の宗教である」と言われてももうひとつピンとこないのだ。

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