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2013年10月11日 (金)

「気」の周辺

父と子と聖霊は三にして一であり、一にして三である。
というキリスト教の三位一体論は、わたしたち日本語話者にははなはだわかりにくい。

そのわかりにくさの理由のひとつとして訳語の問題がある。
そこでたとえば「父」を「おやじ」に、「子」を「せがれ」に置き換えてはどうか?

そんな提案をしたところから話は親族と言語の関係に発展してここまで来た。

おぼえておられるだろうか?
実はあの時、「聖霊」についても「気」という語に置き換えてはどうか、ともうひとつの提案をした。

親族と言語の関係について一段落したこの機会に、もういちど「気」の周辺に戻ってみたい。

「聖霊」という日常会話にはまず登場しない語に比べて、「気」は実によくい用いられることばだ。

気にする。
気になる。
気がつく。
気を配る。
気が変わる。
気持ちがいい。
人の気も知らないで…。

用例は「気」が遠くなるほど沢山ありそうな「気」がする。

もし日本語に「気」という語がなかったならば…。
どれほど不便か想像もできない。

辞書で「気」を引くと次のような語義が出ている。

1.天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの
2.万物が生ずる根元。
3.その物本来の性質を形作るような要素。
4.生命の原動力となる勢い。
5.呼吸。
6.心の動き、状態、働きを包括的にあらわす語。
7.精神。
8.あたりにみなぎる感じ。

なるほど。
要するにこの宇宙や人間存在の根本を支えている何かなのだ。
この世のもっとも基本的な要素なのだ。

なかでも語義の8は「聖霊」の性質をよくあらわしている。
「精霊」とも相通じるものがある。

そう考えれば三位一体論の「聖霊」を「気」に置き換えてはいかが、という提案はわれながらまんざら的外れではなかった。

「気」は「天地間を満たし」ているというから、エーテルのような存在である。
エーテルのように日本語の世界もあまねく満たしている。

「気」はエーテルのように日本語話者の周辺にみなぎっている。
だからわたしたちは何かと言えば「気」ということばを使うのだ。

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