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2013年8月10日 (土)

三位一体と言語(その4)

三位一体論の訳語について前回は果敢にチャレンジしたのだけれど、結局は大変な誤解に陥ってしまった。
われながらみっともなかった。

それはさておき、この「父」ということばである。
シンプルなことばだから、三位一体論のオリジナル言語でも「父」を意味する語にちがいない。

しかしここで、私のようにキリスト教に縁のない人間には素朴な疑問が生じる。

三位一体論における「父」は神さまを指していると思う。

しかし、一神教の神さまは人間じゃない。
だから、男でも女でもない。

なのに、「父」という男性を指すことばを用いるのはおかしいではないか?
「父」という語の代わりに性を超えた「親」という語ではまずいのだろうか?

キリスト教の神さまはきびしい神さまだから、どうしても父性のイメージと重なってしまうのかもしれない。
しかし、「父」という性にかかわることばを用いることによって、絶対的な超越者の立場からいくぶん人間のレベルに引きずり降ろされた感がある。

さて、かりに「父」を避けて「親」という語を用いたとしてもまだ問題は残る。
それは、「子」ということばである。

三位一体論における「子」はイエスを指していると思う。

神さまは唯一の超越者なのに、「親」と「子」という親族関係などあっていいものだろうか?
「子」を認めると唯一者が唯一者でなくなるのではないか?

三位一体論における「親子」や「父子」は一種のアナロジーであって、人間と同じような親族関係をあらわすものではない。

そんな弁明もあるかもしれないけれど、わたしたちキリスト教徒でないものにとっては誤解を招きやすいことばづかいである。

「父」や「子」でなく、もっと適切なことばはなかったのだろうか?

これは訳語の問題ではなく原語の問題である。
前回みっともない失敗をしてしまった照れ隠しではないが、つい原語に矛先が向かってしまった。

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