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2013年8月 2日 (金)

三位一体と言語(その3)

キリスト教の三位一体論を日本語で理解しようなんてしょせん無理…。
前回の最後のほうではそんなあきらめムードが漂っていた。

しかし、このブログの取り柄はたとえつたない思考であっても粘り強く考えることである。
もう少し、この問題に食いついてみたい。

訳語の工夫について、「聖霊」というなじみのない語に代えて「気」という日常生活でもよく用いられる語を使ってみた。

しかし、あまりうまくいかなかった。

もしかすると「父」や「子」のほうに問題があるのかもしれない。

「父」は比較的改まった場面で用いられる親族呼称である。
つまり、ややとりすました感がある。

理解を進める上で、このへんに難があるのではないか?

そこでもう少しくだけた身近な表現に置き換えてみる。
たとえば、「父」と「子」に代えて「おやじ」と「せがれ」を使ってみる。

「おやじとせがれとそのあたりの空気は、一にして三であり三にして一である」

何となく親しみやすい命題に変わったような気がする。

たしかにおやじとせがれは先祖を共にしているから、煎じつめればひとつのいのちであるとも言える。
それにあたりの空気もおやじとせがれがともに醸し出すものだから、ひとつと言ってもおかしくない。

強引な解釈であるが、いくぶん理解が進んだ気がしないでもない。

しかし…。

よく考えてみればこの理解は本当はとんでもない誤解だと思う。
だいいち、この理解では神さまはどこにも登場しない。

三位一体論は神さまのありように関する概念だから、「おやじ」も「せがれ」もそして「空気」も神さまに由来しなければならないのだ。

やはり安易に訳語をもてあそぶのはよくない。
自戒しなければならない。

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