« 意味の重さ | トップページ | 三位一体と言語(その2) »

2013年7月20日 (土)

三位一体と言語

日本語圏に住み暮らすわたしたちにとって、キリスト教の「三位一体」の概念はわかりにくい。
いくら本を読んでも人の話を聞いてもよくわからない。

腑に落ちる。
あるいは、はたとひざを打つ。

なるほどそういうことか!

ある事柄を完璧に理解した、と思ったとき人はそんな経験をする。
しかるに、「三位一体」に関してはそんな理解の快感を経験することのないまま長い歳月を過ごしてきた。

「父と子と聖霊は三にして一であり、一にして三である」という。

うーむ。

そもそも「父」、「子」、「聖霊」とは何か、してその関係は如何?

と問うた時、ことばの問題が立ちはだかる。

この「三位一体」論を日本語の訳語をもって理解しようとすることが果たして適切なのかどうか。

「父」そして「子」はわたしたちにとってなじみ深い和語である。
しかもその起源が歴史の薄明のかなたにあるほど古い和語である。

「父」や「子」が背負っている固有の意味は、その歴史と同じほど重い。

一方、「聖霊」は漢語だけれどわたしたちの日常感覚にはほとんど縁のない語である。
ひょっとすると「三位一体」の話題の中でしか使われない語かもしれない。

このように来歴も性格もまったく異なる三つのことばを同じテーブルに乗せてその精妙な関係をうんぬんしようというのは、無理があるのではないか?

「父」、「子」はさておくとしても、少なくとも「聖霊」というこなれの悪い語だけはもう少しわかりやすくかみくだかなければならない。

そも「聖霊」とは何か?

「幽霊」ではないし「おばけ」でもない。
「もののけ」でもあるまい。

「精霊」とは発音が同じだし、どこかつながりがあるように思う。
事実、英語にすればどちらも「spirit」だ。

「精霊」って、ほら、森に住んでるあの妖精みたいなものでしょ。

「精霊」と聞くと、わたしたちはついそんなかわいい存在をイメージしてしまう。
しかしそれでは、キリスト教の基本的教義に据えるにしては軽量級の感が否めない。

だから、だれかがどさくさまぎれに「精」の文字を「聖」に置き換えたのかもしれない。
それなら「聖霊」というまったくなじみのない語が、「父」や「子」と並列するようになった理由も納得できる。

いずれにせよ、「聖霊」がネックである。
そこで、これをもう少しこなれた日本語に置き換えると少しは理解が進むかもしれない。

さて、「精霊」とは「気配」であり「気」である。

「気」は目に見ることも手で触れることもできないけれども、あたりに満ちていて流動する力だ。
「聖霊」と置き換える語としてはふさわしいかもしれない。
それに「気」は日本語の中でも実によく用いられる語である。

というわけで、「気」を代替案に採用してみる。

「父と子と気は三にして一であり、一にして三である」。

うーむ。
たいして理解は進まないなあ。

結局、訳語でもって理解しようというのは無理かもしれない。
「三位一体」を生み出したオリジナルのことばに立ち戻るほかないのかもしれない。

自分の理解力不足を棚にあげて、ことばに責任を負わせるのはフェアじゃないと思う。
しかし「三位一体」という難物に向き合う時、どうしても翻訳の限界ということを考えざるを得ない。

|

« 意味の重さ | トップページ | 三位一体と言語(その2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 意味の重さ | トップページ | 三位一体と言語(その2) »