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2013年3月17日 (日)

ことばと意味(その6)

いま私の足もとに、1匹の犬がおとなしくうずくまっている。
名前は「ムサシ」、齢18のおすのブルドッグである。

ムサシは犬であるが、犬はムサシのほかにもいっぱいいる。

隣家で飼われているマルチーズの「じゅん」ちゃんも、きのう街で見かけたうらぶれた雑種の野良犬もそうである。

わたしたちは、「ムサシ」も「じゅん」も無名の野良犬も同じ「いぬ」という言語記号でひとくくりする。

さしたる根拠もなしに、見かけが大きく異なる生き物をひとつのカテゴリーにくくることのできるわたしたちの認識能力はすごい。

ともあれ、「ムサシ」がいて、「じゅん」ちゃんがいて、名無しののら公がいる。
わたしたちは、こいつらとのふれあい経験を通じてある抽象的な概念を形成する。
そしてこの抽象概念を「いぬ」という言語記号で指し示すことにする。

「いぬ」ということばが成立する段取りはおおよそこんなものだろう。

してみると先日来話題になっていることばの意味とは、「いぬ」ということばの成立過程において形成されるこの抽象概念のことになる。

高度な抽象概念というものは、とかくつかみどころがない。
ことばと意味の関係をめぐって私が難渋したのは、このつかみどころのないしろものをわしづかみにしてやろうという法外な欲望にかられたのが原因だったかもしれない。

ことばの「意味」はことばをはるかに超えた領域に存在する。
ことばにできることは、せいぜいその存在を暗示することだけである。

それなのに、私はそれを無理矢理ことばを用いてわしづかみにしようとしたのだった。
そこに落とし穴があった。

ことばは決して意味の領域にたどり着くことはできない。
たかが記号ふぜいにそんな大それたことができようはずがない。

「いぬ ネコ目イヌ科の哺乳類。よく人になれ、嗅覚と聴覚が発達し…」
ことばにできることは別のことばで言い換えることだけである。

ことばにとって「意味」とは決して踏み込むことのできない神聖な森なのである。

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