« 頭としっぽ(その7) | トップページ | 「話す」と「語る」(その5) »

2013年1月19日 (土)

「話す」と「語る」(その4)

おぼえておられるだろうか?

去年の7月ごろ、このブログで発話行為をあらわす動詞「話す」と「語る」について比較検討したことがあった。

新年早々古い話を蒸し返すのは気が引けるのだけれど、実はこのことについてもう一つだけ付け加えたい。

このふたつの動詞に「合う」という動詞をくっつけて複合語を作ってみる。
すると「話し合う」と「語り合う」ができあがる。

「ゆうべは例の問題について夜中まで話し合った」
「ゆうべは司馬文学の魅力について夜中まで語り合った」

ふたつの文例を比べてみると、ニュアンスの違いがあることが分かる。

「話し合う」の場合、座にいる人々は一致点、合意点、妥協点を見出そうと努めている姿勢がうかがわれる。

一方、「語り合う」の場合には一座の人々にそのような姿勢は感じられない。
各自自説を言いたい放題、そんな雰囲気が感じられる。

「感じ」ばかりで恐縮だけれど、この違いはどこから生じているのだろう?

前にもお話ししたように「話す」の原義は「放す」にある。

自分ひとりで大事に抱え込んできた「ことば」を人々の前に放り出して共有しよう。
これが「話す」という行為の根底にある気構えである。

つまり公共性を指向している。
だから、一致点、合意点、妥協点を見出そうという姿勢が自然に感じ取れるのだ。
みんなのためなら少しばかり譲ってもいい、という柔軟な意識がそこにある。

「話す」という行為がそんな柔軟な意識に支えられているのに対して、「語る」人の意識にはある種のこだわりが感じられる。

人は容易に変わることのない自分だけの「型」に即して自説を開陳する。

「話す」と「語る」について比較検討したとき、人が「語る」ためにはしかるべき舞台装置が必要だ、というお話をした。
人々に向かって舞台の上から自分の「型」を披露する、それが「語る」という行為の原型だ。

だから、「話す」のように柔軟になるわけにはいかない。
根っこに不動の「型」があるから、感触として「硬い」のだ。

「かたい」から「かた」。
そして、自分の「かた」を表出する行為が「かたる」…。

動詞の「語る」も、名詞の「型」も、そして形容詞の「硬い」も、ひょっとして同じ意味の源泉から生じた兄弟なのかもしれない。

|

« 頭としっぽ(その7) | トップページ | 「話す」と「語る」(その5) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 頭としっぽ(その7) | トップページ | 「話す」と「語る」(その5) »